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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    一 越前・若狭の村々
      組分け
 ところで、一つの村でありながら、一部の百姓がグループを作って別に庄屋を立て、年貢や村入用も別会計にすることがあった。これを組分けというが、いわば村の中に村ができている状態である。枝村との関連も考えられるが、むしろ頭分の百姓間の問題から生じたもののようである。事例は近世中・後期に多くみられ、地域的には勝山地方が多いが、坂井郡・今立郡にもみられる。今は二例をあげるにとどめるが、早いものとしては、寛文九年(一六六九)の今立郡水海村の例があり、村で「小左衛門組」を立てたところ、領主の許可を得ていなかったので奉行所の詮議を受け、小左衛門が縄をかけられて福井へ連行されようとした。そこで本人と身柄預人二人が連判して庄屋の下知を守り、年貢も皆済する旨の詫状を出して、連行を延ばしてもらった(鵜甘神社原神主家文書 資6)。
 大野郡蕨生村は高七六二石余の大村で、枝村があったが、この村では勝山藩領になって以降、幕末まで組分けをめぐって紛議が生起していた。経緯は詳らかでないが、知りうる事実を幕末まで追ってみよう。元禄七年に四人の者が組分願を出し、これに対して一一人の者が、それでは我々が潰れてしまうとして、領主が認めないよう取扱方を依頼している(城地六右衛門家文書 資7)。不作が続き、年貢を納めきれず潰れる百姓も出ていた最中のことであった。その後宝永五年(一七〇八)には「庄屋二組」があったが、「何角村失脚多御座候ニ付テ」という理由で、庄屋を一人にして給分を定め、四人の者の庄屋役の順番を決めている(城地六右衛門家文書)。寛保三年(一七四三)も庄屋は一人であったが、安永五年(一七七六)に三組に分かれる動きがあり、専福寺が扱人となって和議を取り付けたものの、「乍此上不和ニ相成被申候ハゝ組中引別可被申候」(同前)という文言の付いた証文であった。寛政二年には九人の者が「思い立」って組分けを願い出ており、連判して雑用が多くなっても負担すると約束し合うとともに、「此方・書立候究証文」を相手が認めるならもと通り一組になるともしている(城地六右衛門家文書 資7)。これが実現したかどうかはわからない。
写真78 蕨生村組分けの連判証文

写真78 蕨生村組分けの連判証文

 文化六年には四人の者が組分けを願った。これはのちに小組と呼ばれるグループと思われるが、これに対して六人の者が「一家一類之義理合も有之」どの組にも加われないので、六人だけで組分けしたい。年貢はもちろん不時の御用も滞りなく勤めると願っている。これが六右衛門組と呼ばれるグループの動きであろう。文政八年には三組があり、大組と六右衛門組が、木落村の越石(入作)方と紛議を起していた。両組は、小組からこのさい三組が一体となり、越石方に対しては組分け以前の扱い方にしようと提案があったことについて、これには決して承知しないこと、大組と六右衛門組はゆくゆくは同じ組になること、両組はいずれも小組と同じ組にならないこと、両組とも越石組を立てさせず、一方だけが越石方を取り込まず、両組が一組になった時に越石方もひとつに組み合い仲良くすることなどを決めて連盟している。
 この越石方をめぐる紛議は天保期まで続いたらしく、天保八年に越石組を立てる動きが出て、それまで小組に属していた二人の越石方が離脱しようとした。そこで小組からその知らせを受けた大組と六右衛門組は小組のために扱いに入ることとし、その案を定めて三組で内済の取替証文を作成した。内容は越石の二人の待遇を改善し、扶助を加えて引止めを図り、また従来通り小組の庄屋に他の庄屋が相談することを確認したものであった。
 このように離合集散を繰り返したのであるが、蕨生村には四人(大組に二人)の頭分の百姓がいて彼等が組分けの動きの中心であった。組分けをすると諸雑用が多くかかるので小百姓としては迷惑で、和順を望むのであるが、「一家一類之義理合」があり、またおそらく頭分の強い支配と庇護を受けており、小百姓が村を動かすことはかなわぬことであったであろう。こうした頭分間の組分け、小百姓の関係は、隣国美濃でもみられたことが知られている。ただ、その後、天保十三年には三組に分かれたまま「三組盛立帳」が作成されており、十四年には領主の余業差止めの触が出たさいに、穴馬行き牛追稼の回数を減らす旨の一札を「蕨生村三組小前銘々」から「同村頭分」の四人へ宛てて出すなど、村としての一体性の側面もみせている(城地六右衛門家文書 資7)。



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