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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    一 越前・若狭の村々
      親村と枝村
 枝村と本村の関係は同等に近いものから強い従属性をもつものまで様々であった。例えば幕府領の今立郡西鯖江村では枝村有定に庄屋・長百姓が立てられており、正徳三年(一七一三)の村明細帳に親村役人とともに署名している。年貢皆済状は享保三年(一七一八)の場合、親村の西鯖江村分だけの年貢皆済状を出しているが、そのことから有定村だけの皆済状が別に作成されていることがわかる。鯖江藩領になった後の同九年の皆済状は村高の下に両村名を並記し、署名も両方の役人を並記している(加藤新左衛門家文書 資5)。いずれも領主へ提出する公文書のうえでは形式上は同等であった。しかし毎年有定村から西鯖江村へ銀二〇匁を納めており、宝暦元年にその趣旨と必要性をめぐって出入が起っていることも知られる。また足羽郡深見村は深見・国本・谷の三垣内からなっていたが、入札制で選ばれた庄屋を出した以外の二垣内は長百姓を出す決りであった(松嶋一男家文書 資3)。
写真77 西鯖江村・有定村物成

写真77 西鯖江村・有定村物成

 山方の勝山藩領平泉寺村について一例だけをあげると、枝村の横江が分盛(別盛)、つまり村入用の独立採算制を何度も願っていたが、寛政十一年(一七九九)になって領主や大庄屋関係、祭礼・山論・道場作りの雑用等一四項目は本村から割り当てるという制限付きで分盛が認められた。その後、岡・赤尾の二枝村も分盛を願い、領主の意向もあって文化八年(一八一一)に認められた(平泉寺区有文書 資7)。近世後期には枝村の自立化の動きがあり、領主もそれに前向きであったようである。
 他方で、浦方の村などでは、協働制の強い業態のために親方・子方関係が結ばれており、それが親・枝村関係にも現れていた。三方郡世久見浦の枝村食見は牢人が住みついて百姓となったと伝えるが、近世初期以来たびたび本村と出入が起きている。食見は製塩などで次第に本村より裕福になって自立を目指していた。しかし、文化三年に領主の指示で食見に庄屋が立ったが名目だけであり、村の諸勘定でも親村から独立できなかった(松宮太郎太夫家文書 資8)。丹生郡大丹生浦の枝村白浜は、本村の「子方」で、釣魚はすべて親村の商人に売ることになっていたが、文政七年に脇売りしたこと、また干烏賊に加工したことで出入になり、内済の結果、大丹生の商人は値段を近隣の浦より下値にしないこと、干烏賊は水揚げの三割五分だけを干し、本村商人へ売り渡すこととなっている(片岡五郎兵衛家文書 資3)。同郡新保浦の枝村城ケ谷の住民は『通史編4』で述べるように、初め五右衛門・清太夫家、のち惣兵衛家の譜代の家来として親分・子分関係にあった。ここでもたびたび出入があったが、それは枝村・親村間ではなく、枝村・親方間の争いとして現れた(相木惣兵衛家文書 資5)。



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