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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    一 越前・若狭の村々
      枝村の数
 近世の行政村は慶長の太閤検地で定められた。しかし、それは領主支配の都合によるものであった。生産・生活の面では村の中がいくつかの集落に分かれた村もあり、逆に何か村かのまとまりをもつものもあった。村の中の村を枝郷・枝・朶(枝の意)・分村・小村・小名・垣内・出村などと呼んだ。もっともその数は資料によって差がある。それはどういう集落までを枝村と認めるかにより、また調査の精粗の差によって違いができてくるようである。表51・52は国絵図ないし郷帳の数値を示したもので、いわば領主が把握していた枝村の数である。表示しなかった『越前国名蹟考』では朶は六五三であり、また元禄六年(一六九三)頃の「若狭郡県志」は三三五の名・小村を、宝暦四年の「若郡一国亀鑑」は二九〇の枝村を記載していて、いずれも表示の数よりかなり多いのである。その限りで表についてみると、郡別などの詳しい説明は省くとして、越前では枝村を持つ村(親村・本村)は村総数の中で、「貞享国絵図」で二二・五パーセント、「天保国絵図」で一八・〇パーセントである。また、親村一村当たり平均枝村数は前者が一・七、後者が一・四で、「天保国絵図」がいずれも少ない。近世に枝村が独立した様子を反映しているのであろう。

表51 越前の枝村

表51 越前の枝村
          注1 村数には枝村を含まない。
          注2 海道静香作成.


表52 若狭の枝村

表52 若狭の枝村
     注1 村数には枝村を含まない。
     注2 海道静香作成.

 若狭の場合は「正保国絵図」の数値がごく少ないが、書類の作成基準が違うからであろう。「酒井家文庫国絵図」の村総数に対する親村の比率は二〇・二パーセント、親村一村当たり平均枝村数は二・五である。つまり、この限りでは若狭は越前と比べて親村の比率は大体同じであるが、枝村の数は平均して多いことがわかる。
 なお、各親村が持つ枝村の数は、大多数が一ないし二程度であるが、なかには数か村を持つものがあり、最も多いのは「酒井家文庫国絵図」の大飯郡川上村の一二である。越前では「天保国絵図」の大野郡平泉寺村の一〇が最も多い。



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