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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    一 越前・若狭の村々
      相給の村
 相給とは武士(給人)の知行地給付の一方法で、知行地を割り当てるさい、まとめて渡さず分散して給付して百姓との関係を薄くしようとしたもので、一つの村を二人以上の給人で知行することがあった。このような大名の家臣の相給はごく普通にみられることであった。
 また越前のように何人もの大名の領知のある所では、大名同士で一村を分割して領有することがあった。これを越前では「割郷」といったが、「元禄郷帳  」によれば越前の割郷の村は二六を数えた。その一例として大野郡御領村の場合は、はじめ福井藩領、次いで松平直良の木本藩領になったが、直良が勝山へ所替えになった時に領地境になり、村高一六八石一斗七升のうち二七石三升三合が幕府領福井藩預り、残りは勝山藩領になった。その後直良は大野へ所替えになったため、二七石三升三合は福井藩へ付けられ、勝山藩領の分は「勝山御領分」と呼ばれ、福井藩に預けられることになった(伊藤三郎左衛門家文書 資7)。
 大名家臣の相給の事例をあげれば、小浜の浅野氏から遠敷郡本保村に合わせて六二〇石余を給付された六人の給人が連署の書状を出し、御用があって現地へ行けないので、村の惣中として、一人は一二〇石、他の五人は一〇〇石ずつに村高(土地)を割り分けてほしい、百姓も六つに分けてほしいと依頼している(清水三郎右衛門家文書 資9)。またこの村は藩主京極氏の時には、初め三人の相給(三給)であったが、さらに分給されて七給になり、百姓もそれに従って割り振られている。このように細かくなると、百姓の持高(耕作地)との関係が複雑になり、「こし米」という米の受渡しで微調整を図っている。
 給人の知行が俸禄制でなく地方知行制の場合は給人ごとに庄屋が置かれることがあった。足羽郡岩倉村は文政十一年(一八二八)当時、福井藩の直轄地である御蔵所と三人の給人の相給であったので村庄屋のほかに「御三給庄屋」がいた。その後給人に変化があったためか庄屋が四人いたが、天保十一年に村方困窮を理由として村極によって庄屋を一本(一人)に改めている(松嶋一男家文書 資3)。



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