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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    一 越前・若狭の村々
      村切
 越前に「四方搦」という言葉があった。村の東西南北の領域を定めることを意味し、中世から使われていた。大野郡巣原村  の慶長三年検地帳をみると田畑の地目・反別がなく、稗と大豆を米高に換算して記載しているが、そのあとに「この山さかへ」として東西南北の地名・町間数を定めてある(山・吉左衛門家文書 資7)。四方搦は検地奉行が確定したのである。また一紙に四方搦を定めたものに大野郡坂谷六呂師村・不動堂村宛などがあるが、六呂師村は慶長三年検地帳と同じ日付、不動堂村は翌日の日付で署名は検地奉行の家来である(松村利章家文書・砂田弘太家文書 資7)。敦賀郡菅谷村は田地がなく、焼畑をしている村であったが、村からの言上書に、朝倉貞景から四方搦の御書をもらい、また太閤検地帳にも書き載せてもらったと述べており、事実、検地帳に記載されている(中山正彌家文書 資8)。
写真76 巣原村太閤検地帳(末尾)

写真76 巣原村太閤検地帳(末尾)

 村域を定めることを一般に村切というが、太閤検地にさいして村境を変更された事例もある。敦賀郡大比田浦は慶長検地によって村高が三一七石五斗六升二合になったが、それ以前の「先高」は二八一石三斗二合であった。慶長五年、大比田惣中で確認した覚書によると、先高のうち六二石五斗一升の土地を隣村の横浜・本比田・杉津浦へ渡し、検地後に横浜・杉津浦から五四石九斗七升八合の土地を繰り入れたことがわかる(中山正彌家文書)。つまり村域を変更したのである。もっとも、その土地の耕作人は変らなかったらしく、このため隣村へ出入作するかたちになった。そこで、元和六年(一六二〇)に出入作の解消策がとられて大比田の村高は四五七石七斗七升八合に変更された(『敦賀市史』通史編上巻)。また、同じ慶長五年に大飯郡岡田村惣中から上下村百姓宛に五二石六斗五升六合の石高を渡した旨の一札が知られ、領主が関与したかどうかわからないが、これも村切であろう(荒木新輔家文書 資9)。



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