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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    一 越前・若狭の村々
      家数と人数
 越前・若狭の家数・人数を広く統計的に知りうる史料は少なく、近世前期についてはとくにそうである。そこで、近世中・後期に藩領単位で集計された家数・人数の例を示そう。宝暦六年(一七五六)勝山藩領二万二七七七石の百姓と水呑の家数は二七一二軒、うち高持一二〇一軒、水呑一五一一軒。人数は一万二〇三七人、牛馬は七八五匹であった。ほかに寺庵・山伏が六軒・六人、乞食・えたが合せて五軒・四七人いた(室屋笠松家文書)。外数を除いて計算すると高持・水呑の構成比は四四対五六で大体半々、高持の平均持高は一八石九斗六升五合であるが水呑も含めると八石三斗九升九合になり、一軒当たり家族数は四・四人、牛馬〇・三匹となる。また同年の大野藩領四万石の家数は武士を除いて四八一五軒、人数二万三七四二人、牛馬一〇一二匹で、他に奉公や稼ぎに出ている人が三四八人と面谷銅山に住む四三軒・二二六人がいた。この外数を除いて計算すると、一軒当たり平均持高は八石三斗七合、家族数四・九人、牛馬数〇・二匹となる(武田知道家文書 資7)。

表50 鯖江藩領の人口推移

表50 鯖江藩領の人口推移
           注1 *1は8年分,*2は7年分,*3は9年間分である.
           注2 『間宮家文書』第三巻により作成.

 次に、鯖江藩の人口について宝暦七年以降、一部の年代を欠くが、近世の後半について継続的に推移のわかる史料がある。表50は、便宜上ほぼ一〇年ごとに区切ってそれぞれの年間平均値を求めて推移の大要を示したものである。この一一一年間に人口は二割以上増えているが、これは『通史編4』で述べるように、近世中・後期に商品作物生産が発展し、また加工業もそれなりに展開して人々の生活にゆとりができてきたことを背景としている。
 また、天明期(一七八一〜八九)と天保期に人口が一時減少することがわかるが、いずれも凶作によるもので、飢饉や疫病が人の命を奪ったのであった。天明の人口減は四、五年で回復するが、天保の場合は同七年から減り始めて十二年に二万〇七〇七人となり、以後漸増を続けて天保六年当時の三万三〇〇〇人台に戻るのは安政六年(一八五九)であった。回復まで二〇年余りもかかっている。



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