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 第三章 近世の村と浦
   第一節 近世農村の成立
    一 越前・若狭の村々
      村数と村高
 幕府は、正保・元禄・天保度の三回にわたって日本全国の村ごとの石高を国別に調査して郷帳を作成している。そこで、近世前期の「正保郷帳」と後期の「天保郷帳」によって越前と若狭の石高と村数を把握しておこう。表48のごとく、「正保郷帳」の越前国の石高は六八万石余、若狭は八万五〇〇〇石余であり、「天保郷帳」では越前六八万九〇〇〇石余、若狭九万一〇〇〇石余であった。両者の間の石高増加率は越前が一・〇一倍、若狭は一・〇七倍である。この増加率は全国的にみて、ごく低いものであった。表49は越前・若狭の隣国や北陸地域の国の石高、また全国合計高を示したものであるが、越前・若狭の石高増加率が近江・山城とともに低いことが読みとれる。それは全国合計に対する越前・若狭の石高合計の比率が、「正保郷帳」の三・四パーセントから「天保郷帳」の二・六パーセントへ低下していることでもわかる。

表48 正保郷帳と天保郷帳の村数と村高

表48 正保郷帳と天保郷帳の村数と村高
 注1 小物成高を含む.
 注2 海道静香作成.

 しかし、第一章第三節で述べたように、越前の場合はすでに慶長三年(一五九八)の太閤検地で大幅な石高増加が行われていた。検地以前の同年の越前国石高は四九万九四一一石で、これと比べると天保の石高は一・三八倍になり、同じ北陸の加賀・能登(一・四倍余)より少し低い程度になる。つまり越前では慶長以前までに、かなり田畑の開発が進んでおり、それがいち早く把握され石高に結ばれていたのである。

表49 越前・若狭と近隣諸国の石高変化

表49 越前・若狭と近隣諸国の石高変化
                   注1 越前・若狭は表48の数値と異なるが,そのまま用いた.
                   注2 石高は「郷村石高帳」による.

 村々の石高(村高)をみると、正保期(一六四四〜四八)、天保期(一八三〇〜四四)とも一村当たり平均は越前が四百数十石、若狭が三百数十石であるが、郡別では越前の足羽・吉田・坂井郡など平場の多い所が大きい。また近世後期には越前で村数が増えて平均村高が減るが、若狭では石高が増加しても村数の増加がわずかであったため平均村高は増えている。
 ちなみに、村高の最も多いのは正保期、天保期ともに城下町である大野の五〇〇〇石余で、城下になった当初は村並の扱いであった事情から石高が付いていた。次いで正保の坂井郡一本田村・波寄村、今立郡中野村が三〇〇〇石をこえていたが、天保には一本田村と中野村は分村されている。若狭では遠敷村が一七〇〇石に近い大村であった。他方で、敦賀郡の白木・立石両浦と大野郡石徹白村(現岐阜県)は高のない村であった。



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