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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    三 藩財政の仕組
      福井藩の歳入
 福井藩の特徴は、地方知行制を採用していたことにより、領知高に占める蔵入分すなわち藩の直轄地が少なかったことである。家中知行地の割合は秀康の時八〇パーセントをこえ、やや減った光通で六八パーセント(前掲表35)、綱昌の時でも六二パーセントにのぼっているのであり、俸禄制に切り替えた酒井氏小浜藩と最も異なる点である。
 しかも太閤検地の斗代が高かったこともあって、平均免も小浜藩や鞠山藩のように五割をこえるのは不可能であった。個別の農村についてみれば、今立郡五箇や沿岸部のように、六割から八割をこえる村もなくはない(大滝神社文書 資6、刀根春次郎家文書)。本章第一節で述べたように、昌勝に分知した時の七年間の平均免が三割六分一厘余であったことからすれば、その頃の福井藩がほぼこの水準であったとみてよいように思われる。
 したがって福井藩では、初発から財政的に余裕があったとはみられない。勝山御領分の物成を拝借したのもそのためであろう。正保元年(一六四四)勝山御領分三万五〇〇〇石を預かったあと、明暦元年(一六五五)にはこの地の物成を三年間拝借し、万治元年には七年間の延長を願い、寛文元年にはさらに三年間の延長を許されている。しかし拝借であるからいずれ返済せねばならず、当座の凌ぎにはなったとしても、やがて財政の重圧ともなるのである。
 延宝三年の歳入を示した表42によれば、小浜藩との違いはきわめて明瞭である。小物成に若干の遺漏があるかとも思われるが大勢に影響はない。福井藩の領知高は小浜藩の約三・五倍であるにもかかわらず、歳入はほぼ二・四倍にとどまっている。しかも正租部分は平均免が三割七分にすぎないのに全体の八五パーセント、「三口米」ともいわれる取米・口米・夫米で実に九八パーセントを占めるのである。小物成は、六斗の入木代、一石の塩浜地子米、茶代銀六匁一分五厘、漉漆代銀七匁五分、網役銀一二匁五分などまで加えても、わずかに二パーセントである。なおこの時は先にみたように、知行地の年貢米を藩が収納していたから、一〇万六〇〇〇石余の「給人物成渡」と、一万六〇〇〇石余の「給知・上り米」(借知)がみられた。

表42 延宝3年(1675)福井藩の歳入

表42 延宝3年(1675)福井藩の歳入
                 注1 *は「給人高」の「御算用帳高不足」分43,000石3合を差し
                    引いたもの.
                 注2 換算率は小浜藩と同じ.
                 注3 「御成箇帳写」(松平文庫)により作成.

 これを実際に村方の収納状況でみると表43のようになる。寛文十年大野郡の「百姓代官」の組下では、平均免が三割五分余、「三口米」で九五パーセントを占めている。延宝四年足羽郡椙谷村十兵衛組下二九六三石余も同じで、一四か村の免は、最高四割六分、最低二割二分、平均が三割五分七厘余にしかならない。この組は、山手銀一貫四五八匁、川役銀四七八匁と小物成が比較的多いが、それでも取米が七六パーセント、「三口米」で八八パーセントにのぼっている(上田重兵衛家文書 資7)。
 このように福井藩は、正租部分への依存度がきわめて高く、それだけに年柄に左右されやすく、不安定でもあったのである。
 藩の収入を増やす最も手近な方法が借知であった。借知とは「借米」ともいい、藩が知行地の年貢の一部を借り上げることである。福井藩では慶安三年に初めて行われたようであるが、この時は「御家中一統五分減り」(五割減)になったので、組頭の給米も借上げの対象になり、二〇石が一〇石に減ったという(「大連家秘簿」大連彦兵衛家文書 資4)。その後寛文八年にも実施され、延宝五年知行地を戻した時に四割の借知が行われ、同八年まで続けられている(「家譜」)。なお借知は、陪臣の給禄にも適用されるのが普通で、家中にとって大きな負担となった。

表43 稲郷村市右衛門・蕨生村源右衛門組下の年貢

表43 稲郷村市右衛門・蕨生村源右衛門組下の年貢
                     注) 「戌年御蔵入御物成納払御算用帳」(土蔵市
                        右衛門家文書 資7)により作成.
 



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