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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    三 藩財政の仕組
      小浜藩の歳入と歳出
 まず小浜藩の歳入と歳出を、主として『小浜市史』通史編上巻によりながらみることにする。図11は十七世紀の年貢率の動きを示したものである。ここで注目されるのは、寛永期(一六二四〜四四)と寛文末年以降比較的安定かつ高率であること、寛永末年の飢饉で急落して不安定になるがそれでもほぼ四割は維持しえていることである。平均的な年貢量は、寛文八年(一六六八)の分知までは約六万一〇〇〇石前後、それ以後が五万六〇〇〇石前後とみられており、越前諸藩に比べるとかなりの高率であったといってよい。
 小浜藩のもう一つの特徴は、表40のように敦賀の駄別・米仲銀・茶仲銀と、小浜の沓代に代表される本年貢以外の収入が多いことである。詳しくは第四章第二節で述べるが、寛文期で年間駄別が銀二五〇貫、沓代一〇〇貫、米仲銀と茶仲銀が四〇貫ずつにのぼっており、西廻海運が盛んになるまでの初期の財政収入として大きな位置を占めた。駄別などが一五パーセントを占めるようなことは、越前諸藩はもとよりその他の諸藩でもあまりみられないことであった。近世初期の小浜藩の財政が比較的豊かなのは、これらの収入によると考えられている。 図11 小浜藩の年貢率

図11 小浜藩の年貢率
注) 『小浜市史』通史編上巻の図82により作成。


表40 小浜藩の歳入

表40 小浜藩の歳入
注) 『小浜市史』通史編上巻,表35による.

 次に歳出を酒井忠直が家督を継いだ万治元年(一六五八)でみると、表41のようになる。これには先述した軍役や普請役など臨時の諸出費のほか、忠直自身の入用、小浜や京都の諸雑費が含まれていないが、それでも先の歳入と比較すると、かなりの差額が認められるのである。

表41 小浜藩の歳出

表41 小浜藩の歳出
        注1 米1石=銀30匁,金1両=銀63匁.
        注2 『小浜市史』通史編上巻,表36を加工作成.

 このような事情は、天守備蓄金からもうかがうことができる。「自然之時」つまりいざという時のための備蓄金が、慶安二年(一六四九)で大判三〇〇枚、小判二万両、銀子が五〇〇貫あったことが知られている。しかも大判には手を付けないこととされており、小浜藩財政の余裕を示すものである(「酒井忠勝書下」 資9)。
 このほか分家などについてもみておくと、鞠山藩は貞享三年(一六八六)敦賀郡の所領五〇〇〇石のうち引高が六五五石余あり、高に対する免は前年より四分三厘下がって五割八分七厘、口米と合わせて取米が三〇二三石、享保(一七一六〜三六)頃諸役米銀が三一石余と二貫余みられる(中山正彌家文書、「敦賀郷方覚書」)。また酒井忠垠の井川領では、貞享三年に三〇〇〇石のうち四一〇石余が引高、免は前年より四分七毛下がって五割三分三毛、取米は一五九〇石、享保頃の諸役米銀は一二石余と一貫余であった(同前)。いずれも五割をこえていて、貞享二年の鞠山藩は六割三分となる。安房勝山藩については、敦賀郡内の所領で延宝元年(一六七三)に、小物成が渋柿代など合わせて銀二貫八五九匁二分あったことしかわからない(「寛文雑記」)。



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