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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    三 藩財政の仕組
      正租と高掛物・小物成
 大名および家臣団全体にかかわる米銀収支の総体を藩財政という。江戸時代は、将軍はじめ大名・旗本・藩士などからなる領主階級が、直接生産者である本百姓から、米を主とする生産物を、年貢として直接搾取することによって成り立っていた社会である。大名は、原則的に百姓から搾取した米と、それを換金した貨幣で自己の生活を賄うとともに、厖大な家臣団とその家族を養い、幕府公役などを勤め、領内の土木工事なども行わねばならなかった。近世初期の大名が、百姓の欠落(逃亡)を禁じて還住を奨励し、土地に居付かせ耕作に専念させようとしたのも、年貢を確保するためにほかならない。
 年貢賦課の方法を徴租法という。若越の諸藩では実際に収穫をみて賦課する検見法が多いが、やがて数年間の平均で年貢率(免)を決める定免法が広く採用された。そのほか春から田植前後までに免を決定する土免法をとっているところもある(第三章第二節)。
 年貢制度は、細かにみれば藩によって異なっているが、基本的には共通しているといってよい。正租すなわち本年貢(本途物成)は村高にかけられる。年貢率を免とか免相(免合)といい、一割(一〇パーセント)を「一つ」と表現する。免はもともと年貢を「免す」という意味で農民の手元に残る部分を指していたとされ、福井藩ではごく初期に引高を称して免といっていることもあるが(中山正彌家文書 資8など)、まもなく年貢率を指すようになった。村高に免を乗じたものが年貢高であり、これの三パーセントを口米として徴収し合わせて定物成ともいわれた。
 先述のように村高は検地によって決められたが、検地の方法が違い、しかも村々の生産諸条件も異なっていたから、年貢率は村によってかなりの高低がみられるのが普通である。越前では、漁獲が見込まれた沿岸部や、越前奉書の産地今立郡の五箇(不老・大滝・岩本・新在家・定友の五か村の総称)など、農業以外の生産があるとみなされたところが高免で、洪水  に見舞われることの多い九頭竜川など大河川の流域が低免であった。太閤検地の斗代が高かったことの結果として、一般的に「高斗代低免」が越前農村の特徴とされている。若狭でも漁村が高免であることが多い。
 したがって、藩全体の平均年貢率が高ければ実収が多いのは当然としても、免の決定には農業以外の諸条件が加味されたのであるから、村ごとに免の高低を比較するのはあまり意味がなく、考え方としてはどの村も精一杯搾取されたとみるべきなのである。なお、新田も高付けされれば年貢賦課の対象となったが、本田畑よりやや低いのが普通である。ただし、第三章第一節でも述べるように、越前・若狭ともに新田開発は低調で、増収を期待しうるほどではなかった。
 高掛物は村高に応じてかけられたものの総称である。福井藩では夫米のほか雪垣代や糠・藁が徴収された。夫米は「江戸夫」「北庄の詰夫」のように、初めは実際に人夫を徴発していたが(中山正彌家文書 資8)、やがて村高一〇〇石について米五石を徴収するようになり、雪垣代も一〇〇石に銀五匁の定めであった。糠と藁も「福居御城御馬屋御用として在々より」差し上げるといわれるように、もともと福井城内で飼育されていた馬の飼料として現物を上納していたが、やがて必要分以外が銀納とされ(青木与右衛門家文書 資5など)、さらに「糠代銀」として村高一〇〇石に二〇俵、一俵に銀三分、「藁代銀」として同じく一〇〇石に六〇束、一〇束に銀九分とすべて銀納となったものである。糠と藁については、小浜藩でも「小浜御馬屋入草ぬか・わら」(刀根春次郎家文書、中山正彌家文書)とみられるように、小浜藩主の馬の飼葉として徴収されていた。
 石高に結ばれた田畑以外の、山野河海の収益やその他の産物にかけられた雑税を総称して小物成という。藩によっても異なるが、第三章でも述べるように様々の物がみられた。越前ではすでに柴田時代に「小成物」とあり、結城秀康の時に設定されたものが継承されることが多かった模様であるが、その後新たに小物成に相当する物産が出れば、役銀や運上の名目で徴収することもみられた。
 このほか諸職人水役銀といって、大工や鍛冶屋などの職人衆への課役もみられた。これももともと年に何日と日を決めて実際の労役に従事していたが、やがて代銀納になったものである。



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