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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
     二 諸藩の藩政機構
      刑罰の種類
 吟味筋は、百姓の喧嘩口論から百姓一揆、また盗賊や殺人などが対象となる。すでに被疑者が特定されており、また逮捕されていることも多いから、もっぱら拷問による自白を強要して判決を下した。実際の裁許状(判決文)を見ても、「証拠は明白」などといった文言は少なく、罪状について「白状に及ぶ」としていることが多いようである(「大野町用留」など)。また逃亡すると、「男振書付」(人相書)などといって、生国をはじめ名前・年令・身体的特徴、逃亡した時の服装や罪状を記した手配書が流された。とくに主殺しや親殺しは全国的に手配されるのが普通で、明治三年(一八七〇)になっても、登米県(宮城県)の事件が太政官から触れられている(片岡五郎兵衛家文書)。また、浜島庄兵衛(日本左衛門)や大塩平八郎などの人相書が、鯖江藩や大野藩までもたらされていることも知られている。
 次に刑罰について福井藩で実際に行われた例を述べておこう(「御用諸式目  」 資3)。まず武士に対しては、よく知られている切腹や武士の身分を剥奪する改易のほか、御暇・御預・閉門・逼塞・遠慮などがある。御暇は福井藩士から浪人になることにほかならず、その場合罪の軽重によって再仕官先を制限されることもあった。
 庶民に対するものとしては、火罪(火あぶり)がもっとも極刑とされた。放火や主殺しが該当し、縁座も厳しく累は父母兄弟伯父などにまで及んだ。次いで偽札造りなどの磔(重罪)、拐かしなどの斬罪(大科)、討首などがあり、『通史編4』で述べるように百姓一揆の首謀者とみなされた者も極刑に処された。処刑は見せしめのために公開の場で執行されたことが多い。ただし、一月・三月・五月・八月・九月と藩主の精進日とその前日、および幕府の精進日の前日、とくに十六日は徳川家康の命日の前日に当たるので、処刑しないこととされていた。
 死罪に及ばぬほどの者は追放に処せられ、親不孝者の国払いのほか、城下払い・所払いなどがあり、追放する前に九十九橋詰で数日間曝すこともあった。国払いは細呂木もしくは板取まで縄付きのまま連行し、そこで縄を解いて追放した。なお、死罪や追放には闕所といって、家財田畑を取り上げることも行われている。
 このほか微罪の者に対しては牢舎や過料があり、博奕を打った者の鼻を削いだり、小盗人の顔に焼印を当てたり、巾着切りの指を切ることなどもみられた。
 追放や牢舎には赦も行われた。歴代藩主の年忌法要の時が多かったようであるが、将軍の年忌、秀康の像堂が出来た時、また藩主の妻が懐妊した時などにも実施されている。まず菩提寺から願い、それを法事奉行が家老に取り次ぎ、町奉行・郡奉行・目付などと相談し、藩主の許可を得て決定した。追放などはさかのぼって許したり、また「昨日之罪人」でも「其者之大幸」として、罪を犯した時日の遠近を問わず赦を行うこともあった。牢舎などは、法事結願の日に菩提寺の仏前で縄を解かれたという。封建領主の「慈悲」が、百姓の目にじかに映るようにとり行われたことに注意しなければならない。
 福井藩は安永七年(一七七八)に「公事方御定書」八二か条を集成する。内容は、裁許絵図裏書などの幕府の権限にかかわること、江戸や関八州に固有のことがないほかは、幕府の「御定書百箇条」に酷似している。例えば幕府の「名主組頭」が「庄屋長百姓」となり、「品川」を「板取」とするがごとくである。一門大名として幕府法を見習ったのであろう。
 牢屋番や犯人逮捕、また拷問や処刑などには、大野藩の古四郎  (古城)のように、差別された人々が身分的役目として動員された。小浜藩ではえたとか非人の身分とされた人々が、役人とともに百姓一揆の頭取(首謀者)逮捕に向ったことも知られている。百姓から差別された人々に下級警察権を与え、逆に百姓を弾圧する側に立たせたのである。これらは重い年貢に苦しむ百姓と、差別された人々を離間させ、相互に敵対関係をもたせようとした、封建領主の狡猾な分断政策を示すものにほかならない。



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