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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
     二 諸藩の藩政機構
      評定所と寄合
 江戸時代の初めにはまだ独立した役所はなく、藩士の居宅が役所を兼ね、政務もここで執ることが多かった。先述した福井藩の「百姓代官」の任命なども、実は月番家老宅で申し渡されているのである。やがて藩政機構が整ってくるとともに、「寄合場」などといわれる評定所が設けられ、一か月に数回の「式日」(会日)を定め、ここで定期的に寄合がもたれるようになった。
 酒井忠勝は、寛永十一年年寄衆への「条々」で、月に三度、一〇日に一度の割合で寄合をもち、年寄のほかに小浜町奉行・目付が出席し、また敦賀・熊川・佐柿・高浜の町奉行が小浜にいる時はその場に出るように定めている(『小浜市史』通史編上巻)。承応二年(一六五三)には郡奉行が加わり、筆頭家老の酒井内匠が「万事の目代」として、すべての評定に出席するようになった(酒井家文書)。
 寛文六年には、式日が月ごとの三日・九日・十六日・二十三日・二十七日の五度に増え、評定が長引けば引続き翌日も集まることとされた。役人は午前八時には出揃い、退散は午後四時頃とされたが、用務によっては夜に及ぶこともあった。また寄合場へは関係者以外が出席することはいっさい禁止されている。式日はやがて、四日・十一日・十九日・二十三日・二十七日に変り、宝永七年(一七一〇)から正月の四日と十一日がやめられ九日になっている。同五年には右以外に毎月七日に家老や用人の寄合も始まった(酒井家文書)。
写真70 評定所式日の規定(「御用諸式目」)

写真70 評定所式日の規定(「御用諸式目」)

 福井藩もほぼ同じであった。式日は五日・十一日・十六日・二十一日・二十五日・二十九日の六回、正月は十六日が仕事初め、師走の十六日で仕事を納め、五月五日と七月十六日が休日とされた。評定には家老が全員参会し、月番家老が議事を取り仕切ったが、小浜藩と違うのは町奉行や「奉行」・目付が次の間に詰めることであった。また評定は午前八時頃始まり、十時頃まで一般の政務を議し、それから十二時頃まで「御勝手方」について評定することとされている。なお藩主が在国の時は、二日・十四日・二十日が「御座所御内用日」と定められているから、藩主の面前での寄合も行われたとみられ、藩主の器量によっては評定を主導する場面があったかもしれない(「御用諸式目」 資3)。
 寄合の構成員は藩によって違っていたようであるが、福井藩では秀康の頃から年寄衆の合議制が指摘されており、寄合による合議そのものは早くからみられたようである。寄合では審議を尽くすことが求められた。小浜藩では出席者全員が遠慮なく何度でも思うことを発言せよとあり(酒井家文書)、福井藩でも惣役人が用務に従って出席することになっているから発言の機会が与えられていたとみられ(「御用諸式目」 資3)、議論を尽くした合意の形成が図られたのである。
 また寄合の内容が記録されたことも重要である。小浜藩では裁許後、関係の役人も加えて目付が「留書」を作成することとされ(酒井家文書)、福井藩でも寄合の場へ右筆が詰め、帳付も控えていることとされており(「御用諸式目」 資3)、評定所留役なる役職もみえる(「諸役年表」)。江戸時代は先例が重んじられた社会でもあったから、記録を保存して後年同じような事件が起った時の参考にしたのである。藩によっては裁許例を集成することも行われている。



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