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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    一 家臣団の編成
      福井藩の家臣団構成
 秀康から光通に至る、福井藩の家臣団(知行取)の構成を示すのが表35である。惣人数の動きに比べて構成の変化が著しいこと、すなわち時代が下るにつれて上級の知行取が減り、下位とりわけ二〇〇石台以下の層が増えていることがまず指摘される。

表35 福井藩知行取の構成

表35 福井藩知行取の構成
      注1 結城晴朝や寺社領は除く.
      注2 忠直には不明が1人ある.
      注3 いずれも松平文庫の給帳により作成.

 秀康の代は高禄の者が多く、なかでも一万石以上が一一人、これらの知行を合わせて二二万一四二〇石、実に領知高の三三パーセントにものぼり、他藩にも例をみないほどの高率といってよい。秀康が武を好み、武士としての落度さえなければたとえ家康や秀忠の勘気を蒙った者でも、平気で召し抱えたといわれることの表れでもある(「越叟夜話」など)。この時の知行高の総計は五四万石をこえているから、領知高の八〇パーセントを占めていたことになる。
 忠直の時の変化は、秀康への殉死と久世騒動の処分によって万石以上が減ることである。大坂の陣の後には結城家旧臣の多賀谷氏と山川氏も絶えたから、秀康以来の者は六人となった。代りに二人が加増されて万石以上になっている。このほか五〇〇石以上でみると、秀康と忠直の給帳にみられる者は一二〇人以上を確認しうるが、知行高は同じであることが大部分で、忠直給帳にのみ登場するのは三〇人ばかりである。久世騒動のあと国を去った者もいたが、あまり目立った変化はなかったといえよう。
 大きく変わるのは忠昌が家臣団を率いて入封した時である。万石以上のうち、小栗備後守や荻田主馬は光長に従って高田に移り、落合美作守などは浪人したといい、残ったのは五〇〇〇石加増のうえ四万五〇〇〇石余となった本多富正一人であった。他の二人は、高田から扈従した永見吉次と、加増されて一万石となった笹治大膳である。五〇〇石以上の者で忠直と忠昌の給帳にみられるのは三〇人ほどにすぎないから、忠昌が高田から三〇〇騎(知行取のこと)召し連れ、忠直の遺臣一〇五騎を召し出したと伝えられるのはほぼ妥当といってよい(「越州御代規録」など)。また「其外半ハ仙千代君御供」(「袖目金」)といい、大野藩などに抱えられた者もいたが、『譜牒余録』などによれば、貞享(一六八四〜八八)頃の旗本や諸藩の家臣に秀康や忠直の旧臣と称する者が散見されるから、忠直の改易で多くの浪人が出たとみられる。忠昌の入封は、この表からうかがわれる以上に家臣団の人的構成を変えたといわねばならない。
 光通のものは、松岡藩と吉江藩成立以後のことにかかり、万石以上が二人になったのは笹治氏の分知によるが、それでも五〇〇〇石以上の一〇人で知行高の三五パーセントを占めている。二〇〇石台以下が急増して五六パーセントにのぼるのが特徴で、総数が増えたのもこの層の増加によっている。しかしこれらの知行高は一五パーセントにすぎない。
 家臣には知行取のほか切米取や扶持米取がいた。「松平綱昌給帳」(松平文庫)には、「御合力御切米御扶持米」として一五八人を書き上げているが、はっきりしたことはわからない。後年、二五万石時代の「松平吉品給帳」(同前)には、寺社方を除いて二一三人の切米取や扶持米取のほか、徒が七九人、小役人四〇人、小算二六人、手代・足軽など合わせて一二五六人、その他俵取や金銀給などが一一八八人とある。また天保初年の「松平斉承給帳」(同前)には、「御年寄」以下の女中が一六三人みられる。
 これらに藩士の家族や、後に述べる陪臣などを加えると、広い意味の家臣はまことに厖大な数になるのである。なお、給帳によっては数十人の御用達商人などまで載せていることもみられる。大名が借金の代りにわずかの扶持米を与えたことによっているが、名目上のことなので家臣の数には加えないのが普通である。



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