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 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    一 家臣団の編成
      家臣団の出身地
 したがって、「本国或は生国」と表現される家臣の出身地も様々である。表33・34は、福井藩と小浜藩の家臣団の出身地を示すものであるが、広い範囲に及んでいることが指摘される。領知高が六八万石と一一万石余であるにもかかわらず、惣人数の差が一〇〇人余りと少ないのは、福井藩が知行取のみであるのに対して、小浜藩が扶持米取などまで含むからである。またその他と不明分にみられる大きな差は、依拠した史料の性格の違い、すなわち成立年代は秀康の給帳が古く、対象とする期間は小浜藩の由緒書が長いことからきている。

表33 福井藩士の出身地

表33 福井藩士の出身地
          注1 その他は21か国.
          注2 「源秀康公御家中給帳」(松平文庫)により作成.

 

表34 小浜藩士の出身地

表34 小浜藩士の出身地
         注1 入国以前は忠勝が小浜に入る前の家臣数を示す.
         注2 その他は38国.
         注3 『小浜市史』藩政史料編二,「解説」表3を加工作成.

 福井藩の家臣の出身地は、三一か国にわたるが、そのうち若狭と越前・美濃・尾張以東が一九か国、近畿以西は一二か国であるが九州には及んでいない。人数・知行高からいっても三河が中核であることは明らかで、これに遠江と美濃・尾張を加えると三九パーセントを占め、知行高が多いことも変わらない。二位の下野に武蔵・常陸・下総などを加えると一一五人の二三パーセントとなり、結城との関係を考えれば容易にうなずけることであるが、知行高を低く押さえられた傾向が認められる。この表ではわからないが、馬廻組や番組の組頭、郡奉行・代官などの「役人衆」も三河が多く、軍事と民政の面でも三河優位は動かない。
 小浜藩は四八か国に及んでいるが、そのうち九州の三か国も含め近畿以西が二七か国を占める。入封以前は美濃・尾張以東とくに三河や武蔵が多く、その後近江が急増しているから、時代が下るにつれて召抱えの範囲が広がったといえよう。ただし、四人以下が二六か国であり、人数そのものはあまり多くはない。
 両藩ともに三河が第一位であるほか、遠江・美濃・武蔵・駿河の出身と称する者が多いのは、徳川家康が三河出身で東海から関東に勢力を張ったことと関係があり、一門ないし譜代大名としての性格をよく示しているといえる。



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