目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 藩制の成立
   第三節 藩政機構と家臣団
    一 家臣団の編成
      家臣団の形成
 大名の家臣団は、戦国以来の戦いを勝ち抜くなかで形成されていった。とくに大名が加増のうえ転封した場合、領知高にふさわしい数の家臣を召し抱えねばならなかったので、それを機会に家臣団が増えることも一般的特徴である。したがって家臣が仕えた時期や場所、出身地なども様々であった。
 「諸士先祖之記」(松平文庫)によれば、享保六年(一六二一)十一月、松平吉邦の時の福井藩の家臣団が、出仕した時期を基準にして表32のように分類されている。人数は分家を含めた数字であるが、秀康と忠昌に多く、忠直のものは案外少ないのである。
 幼年期に付けられた家臣はもともと父のものであるから、やや厳密さを欠くけれども、秀康の結城時代までに仕官した者と、越後高田から忠昌に扈従して来た者が中核を占めていたといってよい。これら四八五人の家臣が、出仕の時期からみて不明分を除いても実に二三通りに分けられ、いわば寄合所帯の観を呈していたのである。十二月には松岡藩の家臣団も吸収されるから、これ以後はもっと増えることになる。
 福井に入ったあと忠昌は、毎年のように一人から四人くらいずつ召し抱えている。そのなかには本多成重の子息や大谷吉継の孫もいるが、加藤忠広の五人をはじめ、徳川忠長や福島正則など処分された大名の旧臣も多く、主家の改易後浪人していた者が伝を求めて仕官したのである。また由緒が知れない者や、仕官の年を不明とする者が少なくないのは、近世初期の特徴でもあろう。
 召抱えが続くのは小浜藩酒井氏でも変わることがない。酒井忠勝は慶長十九年(一六一四)三〇〇〇石、その後加増を重ねて寛永十一年(一六三四)小浜に一一万三五〇〇石を与えられるが、その間多くの家臣を召し抱えていった。小浜に入ったあとも同十六年までに、新規に六二人を抱えているが、このうち五人が徳川忠長の、一一人ずつが蒲生忠知と京極氏の旧臣であったという(『小浜市史』通史編上巻)。また、安永三年(一七七四)まで続いた三九〇人の家臣についてみると後掲表34のようになり、近世後期まで随時召抱えや召放ちが続いているのである。

表32 福井藩士の出仕時期

表32 福井藩士の出仕時期
    注1 *は徳川秀忠に付けられた者.
    注2 昌親と吉品は同じ人物である.

家臣団は、藩祖以来の者が「家中」として存続したように考えられやすい。しかし、弟が大名になれば兄の者が付けられたし、封建社会であるだけに藩主の私情も入りやすい面もあって、追放や暇などの知行召放ちや絶家、あるいは勘気が解けての再出仕なども決して少なくなかった。例えば福井藩の場合、延宝三年(一六七五)だけで二一人が暇を賜っている。この年は出奔した権蔵に心中立てした者が七人いるので例年より多かったようであるが、それでも「兼て不届に付」として追放され、また「立身とも仕り度ニ付」「勝手不自由」などの理由で退去しており、なかには他家へ高禄で召し抱えられるためという者さえいる(「御家老中御用留抜再編」松平文庫)。このように家臣の出入は意外に頻繁であり、必ずしも固定的なものではなかったのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ