目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
    四 幕府領
      飛騨郡代の越前支配
 飛騨は元禄五年より幕府直轄領となり、高山に代官陣屋が置かれた。初めのうちは関東郡代伊奈氏が代官を兼務していたが、正徳五年より専任の飛騨代官が任命されている。
 ところで、明和三年飛騨代官大原彦四郎紹正が本保代官を兼務することになったことで越前とのかかわりが生じた。次いで同人が安永六年(一七七七)に飛騨郡代に昇格したことから郡代制がしかれ、以後幕末まで一四人が交代している(表31)。飛騨郡代が支配した越前の村々は時代によって変化しているが、幕末の文久二年では丹生郡八一村、今立・大野両郡各五〇村、南条郡一五村の六万四九四四石余であった。 
表31 飛騨郡代一覧

表31 飛騨郡代一覧
飛騨郡代は高山陣屋に常駐し、秋の検見の折に越前に来訪するのが通例で、郡代不在の間の本保陣屋では手代五、六人で政務を代行していた。郡代大井帯刀永昌の天保十年(一八三九)を例にみると、本保詰手代として菊地七左衛門・菊地旦次郎・吉江精太郎・石川段右衛門・中里橘次郎が知られる(『江戸幕府代官史料』)。
 本保陣屋の日常業務の模様がうかがえる史料に天保八年の「酉日記」(本保区有文書)があり、本史料を通じて春の廻米、収穫期の検見をはじめ訴訟の処理、用水普請、飢饉の救恤など広範に及ぶ政務の内容を知ることができる。同年は未曾有の飢饉で、当時の郡代大井永昌は救恤の陣頭に立ち、前年秋よりこの年の六月十三日まで異例の長期にわたり滞在した。いったん高山に帰陣したが、同年九月下旬には例年どおり検見のため来駕し、十月中旬まで本保

写真64 酉日記

写真64 酉日記

陣屋に滞留している。
 酉日記には年間を通じて様々な政務の内実が記録されている。その業務は地方と公事に大別できるが、初めに地方の基本的業務である年貢関係についてその大要を追ってみたい。
 春における大がかりな業務に年貢の江戸廻米がある。三月晦日、村々に対して四月二十日までに年貢米を三国湊に川下げするよう廻状をもって連絡される。逐次廻米が行われ、最後の受取船として大坂の嶋屋徳三郎船が三国に着船したのは五月二十六日のことであった。六月三日、出船に立ち合うため手代菊地旦次郎が同湊に出張している。
 秋になると検見の仕事が始まる。菊地旦次郎、石川段右衛門の両名は八月二十七日から九月四日まで大野郡の村々を廻村している。次いで九月七日より同九日までは菊地七左衛門が丹生郡下に出役した。南条・今立両郡の検見では石川段右衛門が足軽を伴い九月二十二日より同二十五日まで出張している。
 手代による検見が終わる頃高山から郡代が来着するが、この年大井が本保に着陣したのは九月二十七日であった。郡代は同月二十九日より十月二日まで西尾藩領から直轄領に編入された丹生郡内の新付の村々を巡見し、次いで同月四日から六日まで破免願の出ている南条・今立・丹生三郡の村々を廻村している。十月九日には丹生郡一五村・南条郡二村・今立郡一村・大野郡三村に対して仮免状が発給されている。大井郡代が本保を発して高山に帰陣したのは十月十一日のことであった。
 次いで公事関係の政務の一端をうかがうためその事例を掲げて要約しておく。一月十八日に無宿者定五郎が本保陣屋内の牢にて処刑された。それに先立ち石川段右衛門が本人に「御下知之趣」を申し渡している。死罪のような重罪は郡代の権限をこえるため勘定奉行の許可を受けて執行された。
 六月二十七日には三月十四日に生じた宿法違反による商品の差押え一件が解決した。本件は、幕府領の丹生郡余田村伝次郎が同郡厨浦から酒・油を輸送するに当たって正式ルートである同郡勾当原  ・中山両村を経由しなかったため、南条郡広瀬村  で当該商品を差し押えられた一件である。被告人は幕府領に属し、関係各村のうち勾当原・中山両村は西尾藩領、広瀬村が福井藩領といったように領分が相違したために紛争解決が長引いた。本保役所が仲介し、「伝次郎取計方不束之始末先方江相詫、余内銀差出、右荷物ハ先方より差し戻す」ことで落着している。



目次へ  前ページへ  次ページへ