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 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
    四 幕府領
      錯綜する代官領
 貞享三年、松平綱昌の改易と福井藩預所の全廃によって、越前の幕府領は二七万石となり著しく広域化した。この時期幕府では直轄支配体制の貫徹を図るため大名預所の縮少を方針として決めた時期でもあり、貞享四年から元禄元年にかけ全国的に預所を返還する大名がみられた。越前における福井藩預りの三万五〇〇〇石が廃止されたこともその趨勢に先行するものであったといえる。
 ところで、貞享三年に大野郡勝山に幕府の代官所が新設され、都筑長左衛門則次・松田又兵衛貞直・平岡吉左衛門道清が代官に任命された(表30 幕府代官および代官陣屋の変遷)。その後、元禄三年に松田は諸星内蔵助同政と交代している。その頃の三代官の所管地域をみると、都筑が今立・丹生・大野・坂井四郡のうち二三四か村九万八八二二石、諸星が大野・坂井・今立・南条四郡一八六か村九万六七二七石、平岡が丹生・坂井・大野・吉田四郡の一四七か村六万三六七〇石で、その支配地域は錯綜していた。また、残余の幕府領は従来からの保田代官金丸又左衛門の支配下にあったと考えられる。なお写真63の「越前国大野・丹生・坂井・今立郡御代官所絵図」は、当時代官都筑が所管した村々を示すものである。
写真63 四郡代官所絵図

写真63 四郡代官所絵図

 元禄四年、勝山藩の成立によって勝山町の幕府代官所は廃せられ、代官陣屋は今立郡西鯖江村と丹生郡上石田村に移された。次いで宝永二年に松平頼方領(葛野藩)の上知、正徳元年の本庄氏(高森藩)の廃絶があり、前者は葛野代官所、後者は高森代官所(いずれも丹生郡内)に引き継がれている。
 八代将軍徳川吉宗は、大名領に比して幕府領の貢租収取が劣っていることを改善する一つの方法として大名預所の復活を決め、享保四年より数年かけて全国に一一藩三五万石余に及ぶ預所を設定していった。かくして享保五年六月に福井藩預所が成立し、高森代官美濃部勘右衛門茂敦より四万四八九九石余、石田代官柴村藤兵衛盛興より四万三八五四石余、舟寄代官日野小左衛門正晴より一万五〇七九石余、合計一〇万三八三二石余の管理を引き継いでいる。
 その後、鯖江藩の成立で西鯖江村の幕府代官所は丹生郡本保村に移転し、これを機に越前各地にあった代官陣屋は本保代官所に統合された。しかし、本保代官所は一五年間存続したにすぎず、元文元年(一七三六)に越前の幕府領全域が福井藩預所となったことで廃止された。
 寛保三年(一七四三)十一月に本保代官所が復活することになり、坂井・丹生・今立・南条四郡のうち、六万四七四二石余が福井藩預所より幕府代官小野左太夫一吉に返された。次いで、寛延二年(一七四九)十一月には、新藩主松平重昌が幼年であることを理由に預所が全廃され、越前の幕府領全域一七万〇九七七石余が直轄地となった。支配地域の増大に対応するため、本保代官所のほかに坂井郡内に下兵庫・東長田・中番の三代官所が増設されている。ところが、宝暦十三年十一月に福井藩預所八万三八三六石余が復活したことを機に、代官陣屋は再度本保代官所に統合された。
 これまでみてきた幕府代官は越前に常駐することなく、江戸に居住していた。したがって代官所における日常の政務は、手付・手代以下の役人によって処理されている。元禄三年七月の「代官交代ニ付申渡覚并請書」(永瀬忠右衛門家文書 資7)によると、代官諸星内蔵助はその第三条で「諸事高木平治右衛門・朝日太郎左衛門并其外手代共可申渡候間、可得其意候事」と述べており、代官所における実務が高木・朝日以下の手代に委任されていたことがわかる。
 江戸に常住していた代官は、秋の収穫時に検見のため任地に赴くのが通例であり、宝暦十一年でみると、本保代官藤本甚助久英が八月中旬、東長田代官稲垣藤左衛門豊章が九月中旬、下兵庫代官天野市十郎正澄が九月下旬に、前後して廻村のため越前に来ている(『間部家文書』)。



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