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 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
     三 勝山藩の成立
      勝山城の築城
 ところで、小笠原氏の長年にわたる悲願に勝山城の建設があった。関宿時代、政信の代までは城主であったが、貞信が跡を継いだ時、幼年を理由に城のない高須に移された。そのため、親族・家臣等が再三幕府に願い出、勝山に移っても城主への復帰を訴えていた。それがかなって、宝永五年(一七〇八)六月九日、二代信辰の時にようやく認められたのである(『徳川実紀』)。早速、築城準備が始まり、八月十日には家老福井新右衛門を新たに城代に任命し、役料一〇人扶持を与えた。翌六年正月、城主にふさわしい諸儀式を整え、同十五日、三〇年ぶりに小笠原家旧例の弓初式を挙行した。
写真61 勝山城再建絵図

写真61 勝山城再建絵図

 次いで四月十五日、幕府へ築城計画書を提出した。それによれば、西側は段丘に面していて拡大できず、また東南部にはすでに家臣屋敷が立ち並んでいたから、十分な敷地を確保することは困難と思われた。旧跡の本丸など利用できる所はなるべく利用し、新規に二ノ丸・三ノ丸を築き、櫓・門・塀・柵・橋を設け、石垣・堀等を整備する計画であった。しかし城敷地を確保しようとすれば高約五五〇石の田畑・屋敷地をつぶすことが予想された。そこで六月、代替地としてこれに匹敵する幕府領の白山麓一八か村か、堀名中清水村、あるいは新保村と五本寺村の拝領願いを計画した(森英三家文書)。ただし、これは実現されずに終った。
 城の規模についての幕府の返答は七月十二日に老中奉書をもって示された。だが、その内容は計画したものよりさらに小規模なものであった。本丸の櫓台を建設することや二の曲輪・三の曲輪を築くことはそのとおり認められたが、新堀七一四間は三四九間、橋一〇か所は三か所、虎口一五か所は五か所しか許可されなかった。本丸の堀二九一間を掘り立てるつもりが、すでに埋まっているものを同じ間数だけ浚うこと、石垣九五〇間と土居一二一九間の新規築造は不許可、代りに総塀のみ二〇九間の計画が五二五間掛けるようにとの指示である(勝山市教育委員会保管文書 資7)。享保五年において古城跡八四石六斗二升四合の全部が城敷地となっているとあり、結局当初の予定より大幅に縮小したものであった(笹屋文書)。とはいえ、財政的に一度にこの大事業を行える見通しは立たなかった。以後、代々の藩主は普請工事に努めたが、結局、勝山城は完成することなく廃藩に至ることになる。



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