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 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
     三 勝山藩の成立
      家臣団と軍役
 勝山に転封を命じられた貞信は、八月二十五日に江戸を発ち、翌閏八月四日高須到着、同十五日、同地に暇を告げ、三日後の十八日に勝山へ入った。準備も後始末もほとんどできないままのあわただしい移動であった。
 まず、藩主・家臣団の居住地が問題であった。勝山町は天正三年に柴田義宣が旧袋田村を中心に開いたといわれ、袋田町・郡町・後町の三町が南北に広がっていた。そこで、かつて義宣の養子勝安によって築かれた勝山城の跡地(その後は幕府代官の陣屋が置かれた)を藩主居住地とし、家臣屋敷はその南に設定した。袋田町・郡町の東側、九頭竜川の河岸段丘上に位置する区域である。元禄九年十一月五日「勝山三町侍屋敷反畝改帳」(室屋家文書)によれば、町方の田畑三六石六斗四升六合がこれに含まれている。
 家臣団構成は、知行を与えられている武士に限れば表26のとおりである。小笠原氏が初めて二万二七七七石を拝領した関宿時代は、その家臣数は七〇〇石を筆頭に七二人、一万一〇二〇石にのぼっていた。高須時代には最高が五〇〇石、人数は五二人に減少した。それが、勝山へ入ってから大幅に削減され、四〇〇石の家老二人を筆頭に四八五〇石(ただし、引用した史料では五二五〇石とある)、人数三二人となっている。これは後述するように藩財政の悪化と関係があったと思われるが、それにしても勝山へ定着するまでに家臣団は大幅に減少したわけである。

表26 小笠原氏の家臣団構成

表26 小笠原氏の家臣団構成
           注) 関宿時代は「小笠原政信公諸士」(松井家文書),高須時代は「小笠原土
              佐守(貞信)殿家中付」(『海津町史』),勝山時代は「勝山藩分限帳」(松井
              家文書 資7)により作成.

 「自小笠原貞信公至同信房公諸士」(松井家文書)によれば、知行取で高須時代に新たに仕官が許された者一三人(一五九〇石)、逆に改易・暇等の処分を受けた者一一人(一四〇〇石)とある。そのなかには伴家正(三五〇石)と弟家忠(一〇〇石)、小笠原成胤(二〇〇石)のように、勝山への転封を機に暇や追放となった者がいた。勝山入封以降では、新たに仕官したのは貞信のとき太田惣内(五〇石、のちに七〇石)・松田源五右衛門(五〇石)、二代藩主信辰代のとき藤田太兵衛(七〇石)の三人にすぎない。
 一方、かつては松尾以来の譜代として重きをなした常葉家が元禄五年に暇を賜わったのをはじめとし、貞信時代に家断絶や廃寺等の理由で六人と一寺(計四九二・五石)が処分されている。ほかに少禄の知行取や扶持米取のなかから元禄五年九人、同七年八人と、元禄期末までに計二四人が同様の処置を受けている。勝山へ入って直後に大幅な家臣団の再編成を行い、高禄の知行を減らし、あわせて約二〇人を少額の知行と扶持米に切り替えたのである。もっとも、知行取といっても給知の村付けはなく、藩から蔵米を支給されるにすぎなかった。蔵米等の支給は、後述のように元禄十年以後、年貢納入にあわせて秋七割、春三割の割合で行われた。
 家臣団の編成は「勝山藩分限帳」(松井家文書 資7)によると、一七人の上級武士以下、平の知行取一六人、近習一八人、中小姓三六人、徒士二九人、寄合二六人、計一四二人である。享保七年九月十七日「御薬草医者御通りニ付勝山高并諸方道法駄賃付」(笹屋文書)には、家中知行取四〇人ばかり、江戸屋敷を含めた御足軽一〇〇人とあり、彼等が、家臣団を構成していたといえよう。そのほかに中間・小者など約一五〇人を加えた人数が家臣団総数となるわけである。上級家臣は武蔵本庄から下総関宿時代に仕官した者が多く、松尾以来の由緒を誇ったのは二〇〇石の脇屋・原の二家などわずかにすぎなかった。
 役職には、城代・家老・武頭(鉄砲組・弓組)・郡代・長柄奉行・横目・江府留守居職・近習頭・歩行頭・大納戸奉行・小納戸奉行・右筆方・賄方・蔵奉行・近習・掃除方・代官・小蔵奉行・勘定奉行などが設けられていた。城代・家老に就く家は三〇〇石以上から選ばれたが、後には脇屋家なども加えられた。通常三人の国元家老が合議して政務を進めた。
 なお、知行取の上級家臣に対しては、藩主の印判を据えた「足軽仕置覚」を下付した。現在、天和二年以来天保九年(一八三八)までのもの一〇点が残存する。いずれも二〇条前後からなり、時期により少し表現に異同があるだけで、内容はほとんど変らない。「足軽」とあるが、実質は家臣団全体の厳格な統制をうたったものである。公儀法度の遵守や宗門穿鑿をはじめ、役儀の実行、わがままな振舞いと風儀紊乱の戒め、質素倹約などを述べ、組頭から小頭・組下足軽への徹底を図っている。
 大名は幕府に対し家格・領知高に見合った役職や軍役を負担したが、小身の小笠原氏は長貴のとき一時若年寄に任じられたことがあったくらいで、幕府の重職に就くことはほとんどなかった。ただ、しばしば従事したものに大坂加番役があった。定番・大番・目付とともに大坂城を警衛する役である。加番役は大番の加勢として寛永二年に始まり、一年交代で通常一万から四万石の小大名が三、四人で任務に就いた。越前では大野藩主や丸岡藩主も任命されたことがある。小笠原氏は表27のように寛永三年の関宿城主の時に命じられたのが最初で、当初から常役の観があった。文化十一年(一八一四)までに二五回を数えるが、とくに貞信は藩主になってから、高須時代に八回、勝山に来て一回、計九回も従事している。これは関係した全大名のなかで三番目に多い回数である。

表27 小笠原氏の大坂加番役

表27 小笠原氏の大坂加番役
   注) 松尾恵美子「大坂加番制について」(徳川林政史研究所『研究紀要』昭和49年度),「小笠原家譜」
      (『勝山市史』資料編1)による.

 実際の勤番は藩の家臣団総数をこえる人数が要求された。元禄十六年の場合、「大坂御道中人数」(脇屋家文書)によると、計七五一人が藩主に従って大坂へ赴き、このうち四九三人が「詰人」、二五八人が「返人」とある。「返人」のほとんどは荷物の運搬に従った雇い人夫であろう。警衛に就いた「詰人」の内訳人数は家中上下六七人、給人近習六五人、歩行二四人、坊主料理人七人、中間二二八人などとなっていた。中間のなかにも加番役の時だけ雇われた者が多数いたに違いない。もっとも、加番役には定められた役高基準による合力米支給があり、小笠原氏の場合、領知高にほぼ匹敵する物成分(約七七〇〇石余)が別に支給された。したがって、これによって財政が悪化することはなく、むしろ積極的に加番役を望んだと思われる。ただ、勝山で中間などの人足を集めるのが大変で、予定どおりの人数にはなかなか達しなかった。例えば、寛政五年(一七九三)の場合、町郷中へ高割で命じられたが、郷方では足軽三人、中間一一八人の分が容易に確保できず、これを勝山町の口入業者である小玉屋に依頼している(「永代帳」勝山市教育委員会保管文書)。



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