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 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
     三 勝山藩の成立
      小笠原氏勝山藩の成立
 貞享三年、福井藩は半知となり、それまで同藩預りとなっていた「勝山御領分」三万五〇〇〇石は、幕府直轄領となった。ところが、元禄四年(一六九一)七月二十六日、美濃高須から、小笠原貞信が二万二七七七石をもって勝山へ入封することとなり、ここに再び勝山藩が成立した。以後、所領は変わることなく、藩主は表24のように信辰・信成・信胤・信房・長教・長貴・長守と続き、幕末まで小笠原氏勝山藩が存続した。

表24 小笠原氏勝山藩主一覧

表24 小笠原氏勝山藩主一覧

 小笠原氏は清和源氏の後裔で、平安時代の末頃、甲斐国加賀美遠光の子長清が、生地小笠原にちなんで小笠原氏を称したのに始まるという。中世には一族が信濃国に勢力を張り、阿波国に定着した者もいた。戦国末期、信濃伊奈の松尾に拠った嫡流の一派は、信嶺のとき武田信玄、後に織田信長に仕え、天正十八年(一五九〇)には秀吉から武蔵本庄一万石に封じられた。その後徳川氏に臣従し、慶長十七年、嗣子信之の代に下総古河二万石に移され、その嫡男政信は元和元年、同国関宿二万二七七七石を与えられた。なお、小笠原氏の一族は豊前小倉一五万石や肥前唐津六万石の大名にも取り立てられている。また、小笠原家は中世以来武家礼法や弓馬法・兵法を伝え、小笠原流として近世にまで及んだことでも知られる。勝山小笠原氏も弓馬・故実礼法を中心にこれを継承し、諸儀式は古式に基づいて行った。おもに松尾以来の譜代の家臣である脇屋家がこれをつかさどり、小笠原家の誇りを守ることに努めた。
 さて、政信には男子が育たなかったため、寛永十六年九月、美濃石津郡多羅の旗本高木貞勝と、信之の女とのあいだに生まれた長男の主膳貞信が嗣子となり、翌年九月襲封した。貞信は同八年八月二十四日に生まれ、わずか一〇歳で関宿藩主となったわけである。ところが、襲封直後の同年九月末、幼弱により「城主にたへず」との理由をもって高須に転封となり(『徳川実紀』)、その後勝山に移るまで五二年間ここにとどまった(図10)。譜代小藩ながら城主格・帝鑑間詰となり、明暦二年(一六五六)には従五位下土佐守に叙任された。
  高須時代には城下の整備など施策に意を用いたが、早くから藩財政は逼迫していたらしい。領内の多くが木曽川等の洪水対策に悩まされ、また、河原となった田畑の復興に力を注がねばならなかった。そのため元禄期に入る頃にはすっかり行き詰まり、同四年六月、木曽川の大洪水を機に転封を幕府に願い出て、勝山に移されることになったのである。
 十七世紀後半、幕藩体制を確立した幕府は、その安定をいっそう図るべく譜代大名の統制・転封策を積極的に進めていた。小笠原氏の場合もその一環であった。この時期、越前では貞享三年の福井藩半知があり、その後享保五年(一七二〇)間部氏鯖江藩の成立に至るまで、大名の異動にともな
図10 小笠原氏系図

図10 小笠原氏系図

う所領の変化は激しかった。大野郡に限っても、天和二年(一六八二)土井氏大野藩の成立、貞享三年福井藩半知による幕府直轄地の出現、元禄四年小笠原氏の入封、同五年美濃井上氏郡上藩領の設定、同十年郡上藩主の金森氏への交代があった。
 さて、小笠原氏の所領は表25に見られるとおりで、九頭竜川右岸にまとまっていた。そして、勝山市域に限れば、先の松平氏勝山藩時代のそれを基本的に踏襲していた。すなわち、直良領であった一町六七か村が一町三五か村と約一万石減少したにすぎなかった。減少した分は幕府領として残り、元禄五年、その一部五三〇〇石余が郡上領となり、同十年、さらに一五〇〇石余が同藩領に加わった。ただし、大野市域では村数・石高とも増加しているのが目立つ。平泉寺の南に隣接する坂谷郷では、直良領時代の二か村が幕府領のまま残り、代って七か村、計一三か村が新たに勝山領とされ、また、九頭竜川を越えた富田庄からも四か村が組み込まれた。なお、元禄八・九年に一部の町村に検地が行われた。その結果、四一六石八斗二升五合の打出しがあり、幕府へ届けられた。天明八年(一七八八)の小笠原長教宛の領知目録にも二万二七七七石に同高の改出が付記されている(勝山市教育委員会保管文書 資7)。

表25 大野郡における勝山藩の領知

表25 大野郡における勝山藩の領知
          注1 松平直良の領知に牛首16か村は含まない.
          注2 松平直良は「生保郷帳」,小笠原氏領は藤田家文書(『勝山市史』資料編1)により作成.



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