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 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
     三 勝山藩の成立
      松平勝山藩の成立
 元和九年(一六二三)、福井藩主松平忠直が改易となり、翌寛永元年(一六二四)四月十五日、越後にいた松平忠昌が福井五〇万石を拝領した。その直後の六月八日、忠昌の弟松平直政が五万石で大野へ、同松平直基が三万石で勝山へ、同松平直久(直良)が二万五〇〇〇石で木本へ配された。ここに勝山藩が新しく成立したのである。
写真59 松平直基像

写真59 松平直基像

 直基は結城秀康の五男として慶長九年(一六〇四)三月二十五日に北庄で生まれた。幼名を五郎八といい、同十二年結城家を継いだが、その後松平氏に復した。寛永三年八月十九日、従四位下大和守に叙任されている。
 ところが、直基は寛永十二年八月一日、大野五万石に移り、代って秀康の六男直久が三万五〇〇〇石を得て木本から入封した。
 だが、寛永二十一年三月八日、彼もまた大野五万石へ転封となった。松平氏勝山藩はわずか二〇年で終りを告げたのである。以後、勝山領三万五〇〇〇石は幕府領となり、貞享三年(一六八六)まで福井藩に預けられて「勝山御領分」と呼ばれた。
 松平氏時代の勝山藩領は表23のとおりである。多くは勝山市域の九頭竜川右岸部で占められ、吉田郡に一か村と丹生郡に一〇か村、それに直良時代には大野市域の九か村が加わっている。また、現在石川県白峰村などに属する一六か村が含まれているが、これらは勝山市の東北部に隣接し、「白山麓牛首十六ケ村」などと称して、近世初期には大野郡に属していた。吉田郡の一村は光明寺村である。同村は中世に平泉寺と関係があり、勝山街道の宿駅とされたという(『永平寺町史』通史編)。丹生郡内に道口浦、厨浦を含め一〇か村が飛領として与えられたが、領内に浦方を含めるのは当時の越前諸藩に共通したものであった。

表23 勝山藩の領知構成

表23 勝山藩の領知構成
 注1 丹生郡は小物成高を含む.
 注2 松平直基は山田雄造「寛永期における越前の藩領について」(『福井県史研究』第11号)収載の表により,直領領は「正
    保郷帳」,小笠原氏領は藤田家文書(『勝山市史』資料編1)により作成.

 松平直良の時に新規に領地となった五〇〇〇石は、いずれももとの木本藩領であった村々、すなわち、若猪野・大渡・壁倉・岩ケ野・大矢谷・小矢谷・池ケ原の七か村、それに坂谷郷内の九か村である。これによって勝山市域を中心とする九頭竜川右岸部のまとまった地域がほぼそっくり勝山藩領となった。このうち坂谷郷内御領村が唯一相給であった(伊藤三郎左衛門家文書 資7)。なお、平泉寺村には福井藩時代から幕府朱印地二〇〇石が置かれ、勝山町には福井藩から受け継いだ神明社領と義宣寺領合わせて計五七石一斗が設定された。
 松平氏の支配に関してはあまり明らかでない。藩主・家臣団は勝山町に居住していたが、具体的なことは不詳である。藩主が直接関与したことを確認できるのは寺社関係のみである。直基は寛永七年三月、平泉寺へ三〇石、同十二年正月十一日、母大蓮院が帰依した勝山町大蓮寺へ勝山河原の新開地二〇石、同十三日、前領主にならい勝山町神明社別当興福寺へ三七石一斗を寄進し、また同年十二月平泉寺へ繋馬を描いた絵馬を奉納した。直良も入封後これらを踏襲し、また、二回にわたり白山御前の社頭普請を行っている。
 藩政の重要事項は年寄衆の合議によって処理された。直基時代には二人から五人、直良時代は七人以内の年寄衆連署による寺社領免許等の文書が残存している。農村支配は代官の下に在村有力農民を組頭に任命し、年貢収納等を行わせたらしい。寛永五年八月、平泉寺村善左衛門は従来どおり「郡之組頭」であるとして、年寄五人が連署した一〇〇石の諸役免許状を得ており、それは直良時代にも引き継がれている(勝山市教育委員会保管文書)。
 藩は収納の増加に努め、浦方の小物成の一つである役塩を、厨浦には三俵から三三俵、茂原浦には二俵から一七俵に引き上げるよう命じた(青木与右衛門家文書 資5)。また、開田地の検地・高付け等を行ったから、農民の負担は容易でなく、村々から軽減の訴願が相次ぎ、逃散が起ったこともあった。寛永六年正月三日、聖丸村に「たをれ者・走り者」が出現したため(大久保吉右衛門家文書 資7)、藩は村高六〇〇石余のうち三分の一に当たる一八六石分の高銀・夫役銀・諸役割物等を免除せざるをえなかった。さらに同十二年には年貢率を今後五年間、定免三割八分と定めている。ただし、直良時代に入るや改めて検地を実施し、同十五年二月、村高より九八石余不足していることを認めながら引高を認めず、年貢率は定免四割、諸役のみ免除すると村へ申し渡している。伊波村でも村高の約三分の一が川流れにあっていると連年訴えており、藩は検地を行ってこれを認め、年貢諸役をそれに合わせなければならなかった(勝山市教育委員会保管文書)。したがって、農民たちは村の維持に苦労が絶えなかった。現在、寛永二年畔川村、同八年中清水村、同十六年猿倉村の内検地帳が残存するが、これらは洪水  による田畑の流出分を高持が負担しあい、村を守ろうとして作成したものであった。もっとも、藩財政も容易ではなかったらしく、同十九年正月十三日、福井町の豪商金屋七兵衛から銀五貫目を借用し、藩主直良が裏書をしている(金屋慶治家文書 資3)。



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