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 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
     二 大野藩と木本藩の成立
      丸岡城受取り
 丸岡藩では四代本多重益のとき家臣間の争いがもとで御家騒動が起り、元禄八年(一六九五)重益は領知を没収され鳥取新田の池田家に預けられた(第二節第一項)。
 幕府は同年三月二十六日、丸岡城受取りとして利知と分部信政をその役に命じた。四月朔日、国元への暇が許され、七日には老中阿部正武より山吹間で将軍綱吉の黒印状を頂戴した。受取りの幕府目付として、成瀬重章・渡辺弥之助の両名が任じられた。域受取りの一行は九日、江戸を出発し二十二日に大野に着いた。丸岡へ発足までの間に乗馬用および諸荷物運搬のための馬、行列のさいに諸品を運ぶための人夫の調達が進められた。また丸岡までの諸宿での宿割の準備も行われた。
 五月三日卯の下刻(午前八時頃)先手が出発、利知は辰の刻に出馬した。勝山街道を通り吉田郡光明寺村で昼休み、止宿は東古市村であった。夜半未の刻に分部氏も東古市村に到着した。四日に目付の成瀬・渡辺の両名も丸岡に到着し、五日は城受取りの段取りなどについて使者を通じての取決めが行われた。六日七ツ時(朝七時頃)森田を発ち五ツ時に城受取りが行われた。滞りなく受取りが行われたあと目付衆に黒印状が返された。夜は足羽郡浅水村に止宿、翌日未の上刻大野に帰城した。
 土井氏は三万五〇〇〇石役でこの役を勤めており、長柄六〇本・鉄砲九〇挺・弓二五張・槍二四本、動員された人数は足軽を含めて一六〇〇余人であった。公儀よりの扶持は、江戸から大野まで一四日分と大野から丸岡を廻り帰城まで五日分、米に換算して京升で四九石八斗七升五合であった(「丸岡城請取一件」土井家文書)。



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