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 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
     二 大野藩と木本藩の成立
      土井利房の入封
 利房は寛永八年に利勝の四男として生まれ幼名を七助といった。正保元年父の遺領のうち下野足利の地に一万石を分け与えられ、同三年には従五位下能登守に叙任された。さらに万治元年に兄利隆の領知常陸のうちに一万石を分知された。寛文元年奏者番、同三年若年寄となる。同四年下野足利、常陸筑波、下総豊田・岡田の四郡で二万石領知の朱印が下され、同十年にさらに五〇〇〇石が加増された。延宝七年七月老中となり、下野都賀、常陸河内、下総豊田・岡田の四郡内に一万五〇〇〇石の加恩があり、領知高は計四万石となった。同年十二月従四位下となり、翌年には侍従となる。天和元年老中職をゆるされ、同二年に大野城を与えられ大野・足羽・丹生三郡の四万石を領することになった。
 利房は七月三日江戸を発ち十六日に大野に入った。藩では七月十九日以降、家臣の屋敷割を本格的に始めた。一方、利房は同二十日に清滝山権現へ参詣し、初穂二〇〇疋を献上した。その足で利房は初めての領内の見分に出かけた。見分は八月にも二度行われ、大野郡内の村々をほぼ見終えた。八月三日には、領内の洞雲寺・瑞祥寺等おもな寺社および町年寄に登城が命じられた(「土井利房日記」土井家文書)。
写真58 大野藩町方条目(末尾)

写真58 大野藩町方条目(末尾)

 次いで利房は八月朔日、町・在にそれぞれ二一か条、二〇か条の条目を発した。大野町に対して出されたものは、(1)公儀法度の遵守、(2)宗門改の実施、(3)喧嘩・口論等の処分、(4)火の用心、(5)出火時の行動、(6)夜間外出時の灯火携行、(7)出火時の近隣および風下の家のとるべき行動、(8)武士に対する無礼な行動の禁止、(9)他所奉公の禁止、(10)町辻番の勤務の徹底化、(11)博奕賭の諸勝負事の禁止、(12)徒党の禁止、(13)城下見廻りの武士への無礼行動の禁止、(14)他所商人の宿泊の規定、(15)諸勧進・不審者への宿貸禁止、(16)請人のない品物の売買・預り禁止、(17)むやみな殺生禁止、(18)道・橋の修理・掃除の励行、(19)公儀御用の人馬などへの迅速な対応、(20)風のある時の職人の防火心得、(21)風のある時の鍛冶職の心得、などである(武田知道家文書 資7)。
 続いて、在方に対して出されたものを町と同文の条項を除いて列挙すると、他領村との出入などのさいの村役人の取扱方、留川等での殺生禁止、田畑売買の期限(一〇年)と他領売禁止、田畑耕作への出精、耕作不出精者への処置、年貢の年内皆済、他領百姓の積極的な受入対策、困窮者への対応、他領での宿泊を要する用事は事前に庄屋と相談、訴訟・出入のさいの村役人への届出、鷹狩時の道掃除不用、などとなっている。土井氏が大野藩領内に出した条目は天和二年のものを除いてまとまったものは残されておらず、これらの条目は以後の藩の支配方針となったと思われる。
 利房は大野藩支配わずか一年余で天和三年閏五月に亡くなり、利知がそのあとを継いだ。利知の治政は六〇余年に及び、以後、利寛・利貞・利義・利器・利忠・利恒と続き幕末を迎える(図9)。
図9 土井氏系図

図9 土井氏系図



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