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 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
     二 大野藩と木本藩の成立
      大野城受渡し
 延宝六年六月、直良は大野への帰国の途上藤沢で体調を崩したため江戸に戻ったが、結局高輪の別邸で亡くなった。柩は京都禅林寺に葬られ、家老の美濃部九郎三郎が護送した。直良の諡は松巖院とされた。直良の跡はその子直明が同年の八月に継いだ。
 直明は明暦二年(一六五六)江戸で出生した。幼名は左門、寛文七年富明を名乗り、のち直明を称する。同九年には従五位下若狭守に叙任されている。天和二年三月に一万石を加増され明石へ転封を命じられたため、大野での治政は五年にも満たなかった。
 明石への出発にさいし家老津田図書を通じて七か条の条々が発せられた(「明石志」)。おもなものを列挙すると、第二条では町在を問わず滞りなく借金の返済を済ませよ。第四条では家屋敷の破損箇所は修理して立ち去る。第五条では大野出発の順番は定めるので期限に遅れないよう、また早すぎないように出発し、そのさい秩序正しく立ち去るように。第七条では喧嘩口論は堅く慎しむこと、などと注意をうながしている。このように地元大野では明石への移転の準備が着々と進められた。一方、江戸でも早々に土井家家老の関主馬・大生源左衛門、郡奉行の大須賀助左衛門、町奉行の小野十左衛門等が訪れ、大野城受渡しの相談が始められた。以後、松平家の家臣太田一信がまとめ役となって何回かの相談の結果、六月朔日が引渡しの日と定められた。
写真57 大野城破損修復願絵図

写真57 大野城破損修復願絵図

 五月二十八日にはすべての門が閉ざされ、翌日は城郭および城下の最後の巡視が行われた。一方、土井家側では若党・中間等含めて総勢五〇〇余人が旗竿五本・纏旗竿一本・鉄砲五〇挺・弓三〇張・長柄三〇本の道具を持ち、大野城受取りに向かった。一行は二十八日までには大野町に到着しており、六月朔日卯刻(午前六時頃)、幕府から派遣された村越直成(初め有馬宮内則故、病気のため交替)・近藤用高の両目付が入営し、大広間上段ノ間に座り、続いて土井家・松平家の諸士が登城した。本丸および番所の諸品の授受が目付の許可のもとに行われ、引き続いて城中・諸士邸宅・家作帳・郷帳等の授受が行われ引渡しの儀は滞りなく終わった。松平家家老の間宮源兵衛・大名分の斎藤将監が引渡しの総括を担当し、各門には一人から三一人の足軽を配置して警備させた。
 引渡しのさいの道具を書き上げた「越前大野城付道具覚」(「明石志」)には、以下のものがあげられている。鉄砲三九挺・鉄玉八二〇〇・合薬一〇貫六〇〇匁・硫黄一桶・筒乱一〇・口薬入六・鉄砲笠七六〇〇・弓二三張・矢数七六八筋・靭四一穂・具足九七領・旗棹三八本・旗棹請筒一一・身付長柄四六本・長柄八三本・明瓶四・撞鐘一などである。また、直基が残し置いたものとしては、武具を除いて塩・荒塩一六俵、芋茎一二俵・大甕一七などが記されている。その他、直明が残す道具として鉄砲以下一三品目があげられている。
 当日の土井家側の役割を、「土井利房日記」中の「大野城請取候時役付」(土井家文書)でみてみると、家老関主馬のもと広間は武田半左衛門等一二人、鳩門は梅沢清右衛門、大手門は牛嶋源兵衛ほか一人、上町御門は長瀬兵右衛門、下大手門は多胡源兵右衛門、水落御門は西村新平、本丸山之上は武田七郎、道具受取りは庭月利右衛門等三人、上使御馳走は大須賀助左衛門ほか一人、給仕は刑部十兵衛等五人、次相詰は奧田喜大夫ほか一人、御預衆受取りは片岡文右衛門であった。
 大野城の引渡しを終えた家老以下松平家の家臣等一行は早々に明石に向け発っていった。すでに直明は五月二十一日に大野を発っており、明石城の受取りも同二十四日には終えている。



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