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 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
     二 大野藩と木本藩の成立
      藩財政
 延宝元年の大野郡内四八か村(大野藩領の約四分の一で大納村等山中九か村含む)分の「亥御物成算用皆済帳」(大野市歴史民俗資料館文書 資7)によって、藩財政の一端を見てみることにする。惣高は一万一六九八石四升八合五勺で、取米は五一八四石六斗九升五合とあるから年貢率の平均は四割四分三厘余となる。最も低い村が本郷村門前分の二割七分、高い村が土布子村の七割一分となっている。村々出分として三二五石余、取米が一〇三石余、その他村々現米出分六〇石余・口米一五八石などがあり、総計は五五五六石七斗四升一合となる。単純に計算すれば藩領全体では二万三〇〇〇石余の取米となる。
 一方、前記算用帳には小役品々として表21のような小物成があげられている。米納分七七一石余は取米全体の一五パーセントに相当する。銀納分の合計は五貫六九七匁余で、米四斗は平均して銀一五匁で計算されているので、米に換算すると約一五二石分に相当する。現物納の品々を別にすると、米に換算してほぼ六四九〇石余が藩庫に納められたことになる。

表21 延宝元年(1673)大野郡48か村の小物成

表21 延宝元年(1673)大野郡48か村の小物成
注) 「大野藩物成算用皆済帳」(大野市歴史民俗資料館文書 資7)により作成.

 これら四八か村は郡内でも山間部の村々が多いこともあって、小役品々には山手・漆・栗・炭釜・鳥もち代など山の生産物に関連したものが多い。また、川役米・鮭川役・簗銀などがみえることから、九頭竜川・真名川水系には水産物が豊富であったことがうかがえる。
 表22は天和二年の「大野藩郷村高帳」(土井家文書 資7)をもとに作成したものである。表21は五万石中の約四分の一の村々の小物成が、表22は四万石すべての村々の分が反映されている。二つの表からは現納分を除き米納分・銀納分がほぼ対応していることがうかがえる。表22には丹生郡が含まれている関係で、魚荷役・大網役など海成が、大野町が含まれている関係で紺屋役・畳屋役・鍛冶役などがみられる。また面谷銅山運上銀として一〇貫があげられており、引続き稼業が行われていたことがわかる。

表22 天和2年(1682)大野藩4万石分の小物成

表22 天和2年(1682)大野藩4万石分の小物成
注) 「大野藩郷村高帳」(土井家文書 資7)により作成.

 なお、先述の「大野藩年寄副状」から、福井長者町に表口七間半、裏口一五間の蔵屋敷があったことが知られる。
 藩財政は延宝期には窮乏に陥っていたようで、例えば、天和二年五月十三日、津田図書の名で西方領新保浦の相木惣兵衛から銀二貫八〇〇匁を借用し(相木惣兵衛家文書)、同五月十五日には銀二六四匁を新保浦相木与助から借用している(相木嘉雄家文書 資5)。これらは明石への転封にあたっての路銀に使用したものと思われ、明石に移ったあと返済すると約束している。
 先述の物成算用帳には代官や代官の属吏と思われる役人が多数みられる。これら四八か村を支配した代官は沢木次郎右衛門で、延宝七年の「新田等由緒ニ付言上書」(島田喜兵衛家文書 資7)にみえる「保田村者沢木次郎右衛門殿代官所之事ニ候間」と同一人物であろう。天和二年の「土井利房日記」(土井家文書)によれば、土井家大野藩四万石は四人の代官によって支配されていたことがうかがえる。彼等は一万石前後の村々を管轄しており、先の史料からもうかがえるように、松平氏大野藩においても一万石前後の村々を四、五人の代官によって支配する体制がとられていたものと思われる。



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