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 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
     二 大野藩と木本藩の成立
      松平氏時代の大野町
 大野町は天正三年(一五七五)の金森長近の入封を契機に町づくりが開始された。長近は亀山の東側に城下の建設を始め、以後城主の交替があるものの、町の整備拡充は進められた。土井氏時代の大野町については第四章第一節に述べるが、天和二年三月に松平氏から土井氏に渡された目録から城内および城下の様子をうかがうことにする(「明石志」)。
写真56 寛永頃の大野城図

写真56 寛永頃の大野城図

 それによると、本丸(のち二ノ丸)の櫓は二重櫓で二つあり、門は外曲輪も含めて櫓門一・埋門一・平門八・木戸門五で計一五、井戸は九つあった。亀山山上(のち本丸)には門が平門五・長屋門一で計六、櫓は二階櫓と二重櫓、溜池も一つあった。侍屋敷は一一六軒あり、内訳は二曲輪一〇軒・外曲輪一〇六軒であった。侍屋敷が少ない理由として「歩行者已下大形町屋敷は近所之在郷に住宅仕候に付家数多無御座候、足軽屋敷五ケ所・中間長屋三ケ所、是亦町在郷に住宅候に付家屋敷少に御座候」とある。町並については、「町数南北竪町五筋、外に寺町一筋、東西横町五筋、但竪町長さ五丁、横町長さ三丁」としている。亀山(大野)城の塀の内は歩いて一三五〇歩ほど、亀山の周囲は一三町(約一四〇〇メートル)、山下丸東西鳩門から亀山山端まで七五間(約一三八メートル)、同じく南北七〇間とある。また、上町口から下町口まで三町ほど、上町口より槙木門まで八四間、下町口より山端まで六三間、追手の堀通より後下惣廻り一七町ほどとある。
 町屋の家数は六一六軒、領内の人数は男女合わせて一万五八七六人、うち男八五四一人、女七三三五人であった。大野町には男一四八三人・女一三〇四人の計二七八七人が居住し、在郷では男七〇五八人・女六〇三一人の計一万〇三八九人を数えた。牛馬数は馬五四二匹・牛四〇一匹で、計九四三匹であった。郷中の寺社数は三五でうち神社は六、寺は二九あった。ただし朱印地を許されている所はなかった。また特産品としては真綿・絲・蝋・漆・厚紙・銅があるとしている。



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