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 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
     二 大野藩と木本藩の成立
      直良の治政
 直良の大野藩支配は正保元年から三〇年余りに及ぶが具体的にはほとんど知りえない。正保四年の「大野藩年寄副状」(本向寺文書 資7)に家老として乙部勘左衛門・小泉権大夫の名がみえるが、二人は木本藩・勝山藩を通じての家臣である。
 天和二年の明石転封直前における大野藩の役職を「明石志」(『大野市史』史料総括編)その他から拾ってみると、大目付・目付・奏者役・勘定奉行・郡奉行・船奉行などがみられ、支配機構が徐々に固まっていったことがうかがえる。
 ところで、大野町の南には堀切野と呼ばれた原野が広がっていたが、万治元年(一六五八)より安川与三右衛門によって新田開発が行われた。翌二年には直良から新田免許状が交付され(安川与三右衛門家文書 資7)、開田絵図の裏書には年貢米二〇俵の納入と新田内を諸役免除とするとの記述がみえる。これに関して享保六年(一七二一)の「大野町新田反別帳」(土井家文書 資7)から田一町六反五畝一七歩、畑二町八反八畝一三歩の計四町五反四畝が開発されたことが知られる。
 また、大野町の惣鍛冶仲間に対しては、土蔵宗左衛門を通じて朝倉氏の時代から大野郡内全域での鎌・鍬・針等の独占的販売が認められていた(「朝倉景満書状」てっぽう屋文書 資7)。寛文十三年の新規鍛冶仲間に加入についての仲間取決めの史料から、大野藩が改めてその特権を追認したことが知られる(同前)。なお鍛冶職の人たちは大野町の鍛冶町に集住していた。
 延宝六年の「銅山鉱毒ニ付訴状」(伊藤三郎左衛門家文書 資7)に「先年大野御領面谷と申す所にも同様に銅山を取立仕候ヘハ、長野村の御田地不作に罷成、近所之畑方も煙懸り難儀仕候由」とあり、延宝以前に大野藩は面谷銅山を開発していたことがわかる。しかし一方で、長野村など近辺の村々に鉱毒の被害が広がっており、公害対策を迫られていたことがうかがえる。



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