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 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
     二 大野藩と木本藩の成立
      直政と直基の治政
 直政の大野における一〇年間の治績を伝える史料は乏しい。ここでは、幕末期に松江藩士からの家譜・系図類の書上を整理して集大成された「列士録」(雲州松平家文書)を中心に、福井での部屋住時代から大野藩主の時代までの家臣団構成・知行・役職などをみてみる。
写真54 松平直政像

写真54 松平直政像

 木本一万石時代には父秀康の旧臣を中心に約五〇人の家臣がいた。慶長期に直政付きを命じられてそのまま家臣となった者が約三〇人、大坂の陣直後の元和期に新規に召し抱えられた者が、江戸を含めて約二〇人である。上総姉崎時代にも新たに五、六人が召し抱えられた。大野城主となり所領も加増されると、大幅な新規家臣の召し抱えが行われた。とくに入封した寛永元年は長兄忠直の豊後への配流、甥光長の越後への転封、それと入れ替りに次兄忠昌の入部があり、新規家臣団の大部分は忠直の旧臣たちから召し抱えられた。その数は九〇余人でこの年に集中している。
 「列士録」中の越前・若狭関係の家臣を拾いだしてみると次のようになる。生国・本国とも越前の者が二〇余人、若狭が七人、生国は越前が一一〇余人、若狭八人、本国は越前約五〇人、若狭五人である。寛永十一年以降に家臣となった者も若干いるが、ほとんどは同十年までに召し抱えられている。
 木本および大野入封後のおもな家臣は以下のようである。氏家五右衛門は元和二年、新知四〇〇石を与えられ家老となっている。乙部九郎兵衛(可正)は慶長八年に三〇〇石で結城秀康に召し抱えられ、寛永元年直政の大野拝領にともない一五〇〇石で彼の家臣となり、大野城受取りを命じられた。棚橋勝助は大野で新知二〇〇〇石で家老になっている。
 「列士録」の中からおもな役職を拾いだしてみると以下のようなものがあげられる。家老・家老御仕置役・町奉行・裏判役・御者頭役・御目付役・鷹匠(頭)・代官・台所奉行・留守居番組・大御番組・小姓などである。給禄は、二〇〇〇石の家老を筆頭に乙部の一五〇〇石、以下五〇〇石が二人、四五〇石が一人、四〇〇石が二人、三〇〇石五人、一〇〇から二五〇石の者が二二人、一〇〇石以下および切米・扶持米取など約三〇人がみえる。ただし役職・給禄とも不明な者も多い。
 寛永元年、大野町の春日社に宛てた直政重臣の神領寄進状(春日神社文書 資7)には、朝日丹波守・神谷源五郎(昌次)・団弥一右衛門・石川弥五左衛門・斎藤彦右衛門・松浦佐左衛門(正重)が連署している。朝日は直政が幼少の頃から仕えており松江移封後は家老となった人物である。神谷は慶長九年秀康より直政付きを命じられ、元和二年新知二五〇石を与えられ寛永二年二五〇石加増、松江で家老になっている。団は寛永元年新知二〇〇石で大野で召し抱えられている。斎藤は元和六年姉崎で召し抱えられ、寛永元年新知二〇〇石を与えられ同九年町奉行になっている。松浦は不明である。
 直政の支配は、先の春日社宛神領寄進状などにその名がみえる重臣等が、補佐するかたちで行われた。大野領の妙金島村と勝山領の松ケ崎村の出入に関して、寛永初年に妙金島村の喜兵衛に宛てた乙部九郎兵衛書状がある。その書状には、「其元田地出入之儀従御年寄衆絵図を御ミせ候間、前々・我等存知之通具各へ申入候キ、いまた不相済候哉無心元候、折角御年寄衆へ御侘言尤候」(島田喜兵衛家文書 資7)とあり、年寄衆による支配が行われていたことがうかがえる。
 なお、天和二年の「大野藩領改出書上」(土井家文書 資7)には、中野村二八六石余、大野町九四石余など一四町村で、計七八三石余が改出高としてみえ、領内で内検地を行ったことが知られる。
 直基の大野藩支配は一〇年に満たないが、寛永十五年大野郡保田村の河原開発につき村の惣百姓に宛てた申渡状に、直基の家臣として三好采女・沼田四郎右衛門・稲葉三太夫等が連署している(吾田与三兵衛家文書 資7)。そのほかの史料としては、春日社や洞雲寺など寺社に宛てた諸役免許状(春日神社文書・洞雲寺文書 資7)以外には知りえない。しかし先述の乙部九郎兵衛書状の後筆で三好采女は直基家老とあり、直基の治政も直政とおなじように、年寄衆による支配が行われていたものと思われる。



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