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 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
     二 大野藩と木本藩の成立
      大野藩の成立
 寛永元年(一六二四)松平忠昌が福井に入封するが、それにともない三人の弟が大野郡を中心に領知を与えられた。直政は大野藩に五万石で入封し、松平氏大野藩が成立することになる。その後、天和二年(一六八二)に土井利房が四万石で入封し、土井氏大野藩が成立し以後幕末まで続く。
 松平直政は慶長六年(一六〇一)八月結城秀康の三男として生まれ、幼名を河内丸(のち国丸・国麻呂)といった。元和二年(一六一六)兄忠直より大野郡木本に一万石を分与され(「藩祖御事蹟」)、同五年六月には従五位下出羽守に叙任された(表19)。同年十二月に上総姉崎に一万石を得、そして寛永元年六月に大野に入封するのである。大野支配一〇年後の同十年四月信濃松本七万石に転封、その後十五年二月には出雲一八万六〇〇〇石を得て、松江松平氏の祖となった。

表19 松平氏大野藩主一覧

表19 松平氏大野藩主一覧

 しばらくして松平直基が大野に入封するが、その時期は寛永十二年八月であり、約二年間は丸岡藩が直政の所領を預ることになった。寛永十年十一月十五日付で、丸岡藩家老の本多織部が中野村のはなくら(花倉)与三左衛門に宛てた諸役免許状があり、この事実を確認できる(花倉家文書 資7)。
写真53 本多織部諸役免許状

写真53 本多織部諸役免許状

 直基は秀康の五男として生まれ、父の死後、いったんは祖父晴朝の家を継ぎ結城を称したが、その後結城から松平に改めた。直基は寛永元年から勝山を領し、同十二年八月に兄直政のあと大野藩主となった。大野領有後一〇年足らずして寛永二十一年三月、出羽山形一五万石に転封、さらに慶安元年(一六四八)姫路に転じた。その家系はその後も各地を転々とし、最後は上野前橋に落ち着いたことから、直基は前橋松平の祖といわれる。
 直基に続いて大野に入封したのは弟の直良である。直良は幼名を長光丸といい、慶長九年十一月秀康の六男として生まれた。同十九年に直久と名乗り、寛永元年六月、大野郡木本に二万五〇〇〇石を拝領した。同三年従四位下土佐守に叙任され、同五年本多成重の娘豊姫を娶った。同十二年八月、直基の跡を受け一万石を加増されて三万五〇〇〇石の城主として勝山に入封、名も直輝と改めた(『平泉寺文書』の同年十二月の史料には直久とある)。同十九年直之を名乗り、寛永二十一年三月に兄直基に代り大野藩主となる。正保三年侍従兼但馬守に任じられ、名も成政と名乗るようになる。その後さらに直富と改名する。このように彼は何度も名を変えるが直良を称したのは延宝三年(一六七五)からである。三人の松平大野藩主のなかでは支配期間が最も長く、三〇年余りに及んだ。
 直政・直基・直良三兄弟の幕府軍役を以下にあげておく。直政は慶長十九年一四歳で大坂冬の陣に出陣し、普請役としては寛永五年の江戸城惣廓の石垣普請などを勤めた。直基は、兄直政と同じく寛永五年の江戸城惣廓の石垣普請、同十三年の江戸城惣廓の石垣普請を勤めた。直良は寛永五年江戸城惣廓の石垣普請のさい、田安・雉子の二橋を修理し、同十三年には江戸城惣廓の石垣普請を勤めた。また、慶安三年江戸城西ノ丸の用材を献上し、同四年には日光山霊廟石垣造営の運夫などを勤めた。



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