目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
    一 丸岡藩の成立
      有馬氏の丸岡藩
 元禄八年、本多氏の改易にともない、有馬清純が越後糸魚川から入封した。清純は、天正十年(一五八二)ローマ法皇のもとに少年使節を派遣したことで知られる肥前のキリシタン大名有馬晴信の曾孫に当たる。慶長十九年清純の先々代直純の時に、肥前から日向延岡へ移封した。直純・康純のあと清純は遺領五万三〇〇〇石を継いだが、元禄三年領内山陰村百姓の集団逃散事件が明るみに出たため、翌年、無城の越後頸城郡糸魚川五万石へ転封となった。事件の発端は山陰村郡代梶田十郎左衛門の苛政にあり、近辺の百姓を含め二四〇〇余人が他領へ立ち退いたという。旧領とほぼ同じ五万石とはいえ、糸魚川は寒冷で延岡とでは藩収にかなり差があったようで、元禄五年には諸士一一四人を含め二七九人の士分に永暇を与えている(「国乗遺聞」)。
 しかし清純の糸魚川支配は長く続かず、同八年再び丸岡へ領知替えとなり待望の城持大名に復帰したのである。所領は、本多氏の旧領四万三三〇〇石に、坂井郡八か村六六〇〇石余(正蓮花村・四ツ柳村・長崎高瀬村・四郎丸村・福島村・沖布目村・若宮村・北横地村)を加えた五万石であった。しかし前にも触れたが、この地は「糸魚川ヨリ猶狭隘」(「国乗遺聞」)であり農地の生産性が低く、家臣への俸禄に苦慮したとみえて、清純はさらに思い切った藩政改革を実施している。まず丸岡入部にさいしては諸士二〇二人、徒以下八八八人に永暇を与えた。これは延岡時代と比べると諸士で三九パーセント、徒以下で六三パーセントの削減となる。さらに元禄十五年には家中知行のうち二割の借上を実施したほか、組頭(大庄屋)制度を設け、その管轄村域を約一〇か村ごとに区切り年貢取立てなどに当たらせるなど、清純は転封後の行財政改革に積極的に取り組んだ。同年、清純は死去し一準が藩主となった。



目次へ  前ページへ  次ページへ