目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
    一 丸岡藩の成立
      丸岡騒動
 重能が慶安四年(一六五一)死去すると、嫡子重昭が、翌承応元年(一六五二)家督を継ぎ三代藩主となった。重昭は明暦元年(一六五五)朝鮮通信使日光参拝の饗応役を分担し、寛文三年(一六六三)・延宝元年には大坂加番を勤め、また窮乏してきた藩財政に対処すべく成重時代の検地のあとを受けて、承応三年から明暦三年、寛文五年、同十一年から延宝元年と三度にわたって検地を実施し耕地の検出に努めた。本多家は重次時代、三河の一向一揆を契機に浄土真宗から浄土宗に転宗しており、丸岡入部後も浄土宗鎮西派本光院月窓寺を菩提所とし、厚く保護してきたが、重昭は真宗本願寺派好善寺(のち受法寺と改号)の僧寿法に深く帰依していた。参勤交代時も寿法を伴ったり、好善寺の寺格を上げるのに相当力を注いだようである。また領内の国神社に宝物を寄進して祭礼を行わせたことも伝えられている。
 しかし延宝四年、重昭の死去にともない、重益がわずか一四歳で丸岡藩を継承すると、藩政も乱れはじめた。江戸前期の全国の諸大名を網羅した『土芥冦讎記』によると、重益について「文武共ニサノミ学バズ、仏道ヲ好、僧侶ヲ寵愛ス、行跡淳直ニシテ、誉モナク、誹モナシ、美少人ヲ愛ス難有、且ツ女色ヲモ好ム」と記され、また「越前丸岡騒動愚覚記」(辻川利雄家文書)にも「天性闇鈍にして政の是非をわきまえず、昼夜観楽にのみふけりて、家の仕置ハ家老に任せり」と記されているように、重益は藩政を家臣に任せ酒色にふけるといった状態で、家臣の信頼も薄かったようである。本多家の御家騒動はこのことが原因で、本多家の改易へと発展していく。以下、その始末について前記の騒動記をもとに述べていきたい。
写真52 越前丸岡騒動愚覚記

写真52 越前丸岡騒動愚覚記

 藩財政の破綻も深刻な状況下にあって、重益の享楽的な生活ぶりを懸念する家臣も少なくなかった。なかでも小身より出世した太田又八は、老臣本多十郎左衛門の死後、重益の下で実権を握り不正の取計いが多かった家老本多織部・寺田内蔵之丞・由村勘解由等を退陣させ、藩政の刷新を図ろうとし、重益の親類大名である松平頼元と老中大久保忠朝に訴えたことで問題が表面化した。頼元は水戸徳川家の連枝大名(常陸額田二万石)で、重益の舅に当たる。また、忠朝は当時佐倉九万三〇〇〇石の城主で幕府老中でもあり、重益の祖母が大久保氏であった。親類中取調べの結果、延宝八年本多織部等六人の者は知行取上げとなり、これに代って太田又八は知行一〇〇〇石の家老に登用され、本多姓まで許された。また、本多刑部・同源五右衛門・伏木五大夫等も家老に任命された。
 しかしこれで事態は収まらず、本多織部一派の巻返しが始まる。本多又八等は親類中へ申し談じて公儀向の不首尾が重なった重益を病気と称して引き篭もらせ、本家の遠縁に当たる本多作右衛門の子、本多外記を養子にたて藩内を収めようとした。これを怨む本多織部一派は、幕府老中の大久保忠朝に主君重益の「再出勤」を嘆願し、元禄六年には重益の病気が全快したので、将軍に御目見との幕命を取り付けることに成功した(「柳営日次記」)。
 こうして重益は、本多織部などを帰参させ、本多又八等に対する報復処罰を開始した。立場が逆転した本多又八は落髪隠居後、嫡子九八郎ともども牢獄につながれ牢中で断食し相果てた。また、彼の一族や一味の者も次々と処罰された(表18)。

表18 丸岡騒動の二流

表18 丸岡騒動の二流
注) 「越前丸岡騒動愚覚記」(辻川利雄家文書)により作成.

 家老の本多刑部・同源五右衛門は役儀取上げとなっていたが、元禄七年、丸岡を立ち退いて美濃大垣一〇万石の戸田家の庇護を受けた。家臣の平岩勘左衛門等三人も立ち退き、そのうち平岩は縁者である尾張徳川家家臣の能勢氏に身を寄せた。本多家では立退者のことを幕府に報告したが、幕府は奉書をもってその穿鑿を命じた。このことは、貞享元年から享保二年(一七一七)まで三四年間の当時の世相を伝える『鸚鵡篭中記』の元禄八年正月十一日条の中に、「江戸・檄之写」として次のように記されている。本多飛騨守家来 本多源五右衛門本多刑部木村左五太夫平岩勘左衛門広瀬太郎左衛門右五人知行所立退候に付、御尋之儀候間、尋出し可被申候、大御目付前田安芸守、両町奉行、御目付松下左太夫・松野八郎兵衛僉議被仰付候間、諸事右之面々可被任差図候、以上、十二月廿六日丸岡からは追捕の者が名古屋に来て平岩の引渡しを求めていたが、交渉を重ねた結果、平岩はついに引き渡されて江戸に護送された。また大垣にいた家老の本多両名は、本多家江戸屋敷に出府を通告した後、江戸深川方面に引き退き、本多家中の者と幕吏等に包囲されるなか、川船の中で遺書をしたためて自害した。
 事件はこうして大きな騒動に発展し、身の危険を感じて脱藩する家臣も多くなり、幕府の裁許するところとなった。元禄八年評定所取調べの結果、「重益常に政事よろしからず、しかのみならず家臣罪科ありとて其食を絶せしことなど、非道なる挙動なり」(『寛政重修諸家譜』)との理由で、領地没収のうえ、鳥取新田の池田家へ御預け、養子本多主計は四国丸亀の京極家へ御預けとなった。一方、本多織部父子は切腹、その他一味の者も処罰され、この騒動は落着した。
 ここに成重以来四代続いた丸岡藩本多氏は越前から姿を消す。重益は、宝永六年(一七〇九)許されて旗本に復帰し、翌年下総相馬郡内にて二〇〇〇石を与えられた。以後本多氏は明治維新まで存続する。
 なお、元禄八年八月の「前谷組村々明細帳」(土屋豊孝家文書 資4)の鉄砲改の箇条に、一、鉄砲壱挺 持主 寺嶋源左衛門右ハ本多飛騨守様御家来ニ候故、先年・寺嶋源左衛門所持仕候、当夏浪人いたし候ニ付、御代官馬場新右衛門(源兵衛)様・稲葉平右衛門様へ証文指上所持いたし候、とみえ、他の箇所にも武士的な名前をもった者が多くみられることから、本多家改易にともない、家臣のなかには帰農した者も多くいたと思われる。



目次へ  前ページへ  次ページへ