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 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
    一 丸岡藩の成立
      本多氏の所領と検地
 本多氏の所領は、「正保郷帳」によると、坂南郡二か村、坂北郡六九か村(うち、覚善村と四ツ柳村は福井藩との相給)、吉田郡二か村、南仲条郡二か村の計七五か村、四万六三〇〇石で、その多くは丸岡町を中心に坂井郡に集中していた。この中には、三国湊に隣接する滝谷村や、北陸道細呂木関所のやや東方、加賀へ通じる脇街道に面する牛ノ谷村、さらには北陸道の近江への口である板取関所の近くの大門・合波両村など、交通の要所となる地域も多く、また十郷用水など坂井平野の用水取入口、鳴鹿大堰のある鳴鹿山鹿村も含まれていた。慶長七年に新たに設けられた滝谷出村には藩倉も置かれ、本来湊町として発展できる要因を備えていた。同村の本村である滝谷村は中世以来滝谷寺門前として栄え、秀康の入部により今村盛次の知行地となったが、慶長七年盛次の命により多くの門前百姓が滝谷出村へ移住したという(滝谷寺文書 資4)。 写真51 丸岡藩領石柱(今庄町合波)

写真51 丸岡藩領石柱(今庄町合波)
 福井藩が寛永三年に沖ノ口条目を定めて以来、他国の商物はすべて三国湊への陸揚げが義務付けられた。さらに同二十年幕府より異国船改の励行を命じられたのを機に、三国湊と滝谷出村との境に口留番所  が置かれ、三国湊以外の浦に着く船も厳しく検問されるようになったため、丸岡藩は大きな打撃を受けた。翌正保元年(一六四四)成重は「領分三国滝谷出村へ前々・着船有之候処、今度切支丹御改に付、右船三国湊へ引寄御改成られ候故、船泊りこれ無く迷惑仕候」(「家譜」)と、福井藩に抗議したが聞き入れられず、以来滝谷は湊町としての機能を果たすことはできなくなった。
 成重には四人の子息があり、嫡男の重能は正保二年家督を継ぎ丸岡藩主となった。三男の重良は元和三年すでに旗本に取り立てられており、下総相馬郡内にて三〇〇〇石を与えられていた。四男重方も寛永四年、福井藩主忠昌に三〇〇〇石で召し抱えられた。二男重看は幼少の頃、本多富正の養子となったが、富正に実子が生まれたため成重のもとに帰り、寛永三年、成重の所領のうち三〇〇〇石を分知され旗本に取り立てられた。これが本多大膳家の始まりである(『通史編4』第一章第一節)。分知の対象となった村は、陣屋が置かれた高柳村のほか、荒井村・寄永村・種山崎村と、四ツ柳村・一本田村の一部(以上坂井郡)および吉田郡領家村であった。このほか、下野都賀郡のうちに二〇〇石が与えられたが、元禄十年(一六九七)に南条郡鋳物師村のうち二〇〇石と交換された。これにより丸岡藩領は、重看の内分知以降、四万三三〇〇石となった。
 有馬氏時代の藩史「国乗遺聞」によれば、寛永十年から貞享二年(一六八五)にかけて五回も検地があったことが記されており、また「(本多時代に)五度検地アツテ領内村々切詰ノ田園ナラサルハナシ、是ニ於テ国用足ラス、実延岡ノ旱湿不毛ノ凶年ニ超ユ」と記載されていることから、領内村々の狭隘さ、すなわち石高に比して耕地が少ない点が本多氏時代から問題になっていたようである。ところで「丸岡領村々太閤検地帳抜書」(吉沢康正家文書 資4)には慶長三年の太閤検地帳の末尾の部分、すなわち各村々について品位別の田畑の高・面積の集計および斗代が記されている。この史料と、本多氏時代の検地がほぼ実施された後の延宝六年(一六七八)以降のものと思われる「村々水帳」(斎藤新右衛門家文書)とを比較すると、村高についてはほとんど変化がないのに田畑面積はむしろ後者の方がわずかではあるが減少している。また、寛永年間に開削された新江用水により、耕地が増加したと考えられる女形谷村・山久保村など用水沿いの村々についてもほとんど変化がない。このことから考えても慶長三年越前で行われた太閤検地はきわめて厳しいものであり、石高の割には生産力をともなわない場合も多くあったことが知られる。また五度にわたって検地を繰り返してきた本多氏の努力にもかかわらず、有馬氏時代になっても太閤検地で定められた石高を維持するのにきゅうきゅうとしていた様子もうかがわれる。



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