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 第二章 藩制の成立
   第二節 越前諸藩と幕府領
    一 丸岡藩の成立
      本多成重
 慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の戦い後、越前一国は結城秀康の所領となり、その重臣今村盛次が二万五〇〇〇石を宛行われて丸岡城に入った。しかし、盛次が同十七年久世騒動で除かれたため、代って福井藩の付家老として幕府から送られてきた本多成重が四万石を与えられ丸岡城主となった。
 成重は、徳川家康の家臣の中でも武名高い「鬼作左」の異名をもつ本多作左衛門重次の嫡男であり、また府中本多富正の従兄に当たる。重次が戦場から妻に書き送ったとされる、「一筆啓上、火の用心、おせん泣すな、馬肥やせ」という手紙は、簡潔に要点をとらえた模範的な手紙文として名高いが、この「おせん」(仙千代)が成重にほかならない。成重は久世騒動を機会に老臣本多富正と協力して、一八歳の忠直を補佐するため福井藩に付属させられ、富正とともに「両本多」と称され藩政に力を尽くした。大坂両度の陣には越前勢の中心となって目ざましい活躍をした。とくに夏の陣では、三〇〇騎を率いて真田幸村の軍を破り、大坂城討入り一番乗りの功名をたて、恩賞として家康直々に国光の刀と三吉野の茶壷を与えられ、従五位下飛騨守に叙任された(『徳川実紀』)。
 成重は、忠直の不行跡に加え無軌道な振舞いに対し諌言を行ったので両者の関係は険悪なものとなった。元和九年(一六二三)ついに忠直は処分された。寛永元年(一六二四)四月、松平忠昌が入封すると、同五月成重は、福井藩から独立して譜代大名となった。ここに四万六三〇〇石の本多氏丸岡藩が成立し、以後四代重益まで存続するのである(図8)。 図8 丸岡藩本多氏系図

図8 丸岡藩本多氏系図



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