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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    二 福井藩の成立
      秀康死去
 慶長十年秀忠の将軍宣下に続き、秀康は権中納言に昇任したが、この頃から疲れが目立ち始め、白山麓一瀬村などに湯治に行くなどしている。翌十一年秀康は、江戸城普請手伝いを命じられ、九か条の掟を与えて多賀谷三経を派遣し、引続き禁裏普請の総督を勤めたあと、東帰する家康から伏見城番に任じられた。十二年には休む間もなく駿府城改築の助役を蒙り、今度は本多富正を遣わしている。
 しかし、秀康の病はますます重く役務にも耐えられなくなったので、三月一日雨の中を伏見を発って帰国した。京都から曲直瀬道三なども来て治療に当たったが、閏四月八日ついに死去した。三四歳であった。このとき土屋昌春と永見右衛門が殉死したが、その家臣の長沼四郎右衛門と田村金兵衛も二人の後を追っている。本多富正も、家臣の松本源兵衛が「富正が外聞よくこの世に留まり、命が長久のように」(總社大神宮文書 資6)と、総社大神宮に閏四月吉日付の願文を奉納しているのをみれば、駿府城の改築をまっとうしたあと追腹する心算であったのであろう。ところが相次いでもたらされた「生きて若い忠直を守り立てよ」(藤垣神社文書 資6)という、家康と秀忠の強い指示によってそれもかなわず、加藤康寛等とともに剃髪するにとどまったと伝える。なお葬儀は、この時世子忠直が江戸にあったため大幅に遅れ、わざわざ北庄まで弔問にきた毛利輝元も、痺を切らして帰国してしまったという(『毛利家文書』)。秀康は初め曹洞宗孝顕寺に葬られたが、徳川一門は浄土宗であるべしとの家康の意向で、新たに浄光院を建立して改葬されたという。
写真41 松本勝延願文

写真41 松本勝延願文

 秀康の病気と死去は京都でも評判であったらしく、「三河守煩い散々にて、祈外字に御神楽申さる」(『御湯殿上日記』四月二十八日条)と、後陽成天皇が平癒を祈らせたといい、三宝院義演も「相続く凶事、珍事々々」(『義演准后日記』閏四月十四日条)と、弟の松平忠吉に続く訃報に哀悼の意を表している。死因は「日来唐瘡相煩い、其の上虚なり」(「当代記」)と伝える。



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