秀康以後も含めて福井藩は、領内惣検地を実施することがなかった。太閤検地の実態は理解していたはずであるから、竿を入れることによる領知高の減少が予測されたからに違いない。したがって部分的な新田検地のみ行ったが、先発した富正は早くも三月十五日、銀一枚で南条郡関ケ鼻の新田を許し、慶長九年には二二石余の高付けをしている(丸岡斉家文書 資6)。この後も新田検地は随時行われているが、打出高は微々たるものであった。このほか用水に関しては前代の慣行を尊重し、大連彦兵衛に鳴鹿大堰の管理を申し付け、また金津への水下げを指示し(大連彦兵衛家文書 資4)、山岸村の三郎左衛門をして「村前に新鎖」を立て、水門の開け閉めや水懸かり三三村一万四五〇〇石の管理をさせ、その代りに持高六〇石の諸役を免許している(林三郎左衛門家文書)。また、白鬼女から天寺川へ新しく用水を掘るなど(西大井区有文書 資5)、農業生産のための基礎条件確保の用意にも周到なものがあった。
農民支配機構をはじめ諸職人や商人の掌握も、ほぼ秀康の代には原型が出来上がったとみられる。今村盛次や本多富正など「年寄」衆のもとに、郡奉行が置かれ、郡奉行の下に置かれた代官の指揮に従って、下代が年貢収納などに当たっている。それにともなって年貢制度も、前代のものを踏襲しつつ徐々に整えられていった。入封直後の八月一日、足羽山に登った秀康に町人が献上したことに由来するという「八朔綿」のことは、あるいは家康の「関東打入り」の故事にちなんだ附会かとも考えられるが、とりわけ浦方において、慶長十年を中心に秀康の頃新設されたり増額された小物成が多いことが指摘される。例えば、大網役・北庄肴役・船役・室役・馬借役・諸米・鱈代・入木銀のほか、太閤検地の時の山手(本山手)や島手(本島手)に加えて新山手と新島手が設けられ、又駄別なども引き上げられている。これらは敦賀郡立石浦が「しんてき(新出来)に過分に出来、在所迷惑仕る」と訴えているように、農民や漁師の大きな負担となった(青木与右衛門家文書 資5、海安寺文書など)。 |