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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    二 福井藩の成立
      家中知行割と寺社領
 北庄に入った秀康は、ただちに積極的な領国経営に乗りだしている。この時期の大名に期待された資質は、たんに勇将であるのみでは不十分で、家中を心服させうること、検地や土木工事などによって支配の基盤を安定させうること、農民統制その他の庶政に関心と能力を持っていることなどであった。
 まず九月九日には家中いっせいに知行割を実施したが、とくに上級家臣と腹心を領内枢要の地に配置したことが注目される(表13)。いまだ戦国の世が遠くないため、知行所も主としてその周辺に与え、「在所に指し置かる」(「家譜」)といわれているように、いつでも臨戦体制に移りうる用意を整えたのである。同時にこのことが、農民に対する大きな威圧にもなったことが理解されねばならない。 表13 重臣の配置

表13 重臣の配置
    注1 郡名は8郡のもの(表15参照).
    注2 氏名のみ通例のものに改めた.
    注3 多賀谷三経は初め3万石、11月12日に2,000石加増.
    注4 知行高は「家譜」による.いずれも与力知行を含む.

 このうち本多富正は秀康より三歳の年長で、一五歳の時大坂にいた秀康に付属させられて以来家臣として仕え、結城では三〇〇〇石を与えられていたという(「御家伝」高嶋文庫)。慶長四年三月十三日付の清水長左衛門(孝正)に宛てた加増の書付に、高木豊前守とともに「本多源四郎」の名で署判している(『譜牒余録』)。今村盛次は結城時代の文禄二年、長谷部茂連・高木長吉ら五人の連署状に「今村伝十郎盛次」と署判し(奈良定一家文書 資3)、また慶長元年以前の加々爪政尚書状に「今伝十申し入れ候」とあるほか、多賀谷三経宛の秀康内書にたびたび登場するので、これも君側に侍していたと思われる(『結城市史』)。清水孝正は仕官の事情は明らかでないが、羽柴秀吉の備中高松城水攻めの時自刃した宗治の子息とも伝える。多賀谷氏と山川氏はもともと結城家の家臣である。大野は、後述するように土屋昌春が秀康に殉死したことを咎められて追罰を受けたため、慶長十四年小栗正高に代っている。「大御所(家康)の仰せによる」(「当代記」)と伝える。敦賀城は元和元年の一国一城令で破却された。なお、慶長十九年以前の忠直書状に、家康が「金津に城取立て申すべきの由仰せ出だされ」大変喜ばしいとあり(本多家・佐久間家文書 資6)、金津築城も噂されたようであるが結局沙汰止みとなった。
 また秀康は、慶長六年十一月九日には平泉寺玄成院  へ二〇〇石を寄進している。こののち有力寺社に所領を寄進するとともに、境内の地子を免除したり、禁制を発して保護を加えた。寺社は寄進地から年貢を収納して諸費に充てたが、玄成院に寄進するに当たり、代官の内記豊後が「上田并つよき百姓」(『平泉寺文書』)を選んだことが伝えられているように、村内でも条件のよいところが与えられたようである。このような保護を受ける代りに、寺社は藩主の武運長久や藩内の安泰を祈願することが義務付けられ、また寺社によっては年頭などに登城して祈外字を行うこともあった。なお寺社領は、おおむね代々の藩主から引き続き安堵されている。



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