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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    二 福井藩の成立
      拝領高
 秀康の拝領高についても、六七万石や七五万石など諸書によって違いがあるが、「家譜」や「慶長加恩録」が採用している六八万石説が妥当と考えられる。この時期の領知宛行状には石高が記載されることは少なく、大大名の場合まず国を与えられ、入国後領内の惣検地を行って石高を確定し、それが領知高として追認されるのが普通であった。越前の太閤検地の総石高が六八万石であり、秀康も検地を行った徴証がないこと、慶長十六年三月の「禁裏御普請帳」にみえる松平忠直の軍役高が六八万石であること、さらに秀康が死去した時、三宝院義演が「三河守は越前一国の主なり」(『義演准后日記』慶長十二年閏四月十四日条)といっていることなどから、六八万石とみられるのである。なおこのなかには、現在は県外であるが、「白山麓十六ケ村」(石川県)や石徹白(岐阜県)も含まれていた。
 七五万石説をとるのは「津山松平家譜」『恩栄録』などであり、越前の六八万石のほかに、若狭と信濃のうちにも賜ったとか、結城の旧領も加えられたとする。しかし、若狭一国がすべて京極氏に与えられたことは動かず、結城も収公されたとみられるので、この考えは当たらない。
 「幕府家譜」『徳川実紀』『廃絶録』など、最も多くみられるのが六七万石説である。「藩祖御事跡」(松平文庫)によれば、元和二年(一六一六)忠直が一六歳の弟松平直政に大野郡木本で一万石を分知し、波々伯部九兵衛(家繁)を付家老としたとあり、『譜牒余録』も「食録一万石を分与す」とし、『徳川実紀』でも上総姉崎で一万石加増されて二万石としている。しかも、後年の松江藩士の中に、先祖が元和二年新知を賜ったと称する者がいることも(「列士録」)、いかにも分知が行われたように思わせる。そうすると改易時の忠直は六七万石となるから、『廃絶録』などは正しいことになる。ところが家繁の名は、「結城秀康給帳」(松平文庫)に七〇〇石の普請奉行としてみえるが、「諸士先祖之記」(同前)には付家老のことは記されていないのである。姉崎で一万石か二万石かなど、確かな史料が残っていないのではっきりはしない部分もあるが、かりに分知が事実とするなら秀康の六八万石とは矛盾せず、おそらく後になって忠直の六七万石が秀康の領知高に結び付けられたのかもしれない。



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