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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    二 福井藩の成立
      越前拝領
 慶長五年七月二十四日家康が下野小山に着陣したので、秀康は結城に本隊を残し、わずかの供廻を連れて家康の本陣に馳せ参じた。石田三成起つとの報がもたらされたのは、ちょうどこの頃のことである。そのため家康は、八月四日軍を反して江戸に向い、九月一日西上の途についた。秀康には、家康の「其表の儀三河守(秀康)と相談有り、御精を入れられ尤に候」(伊達政宗宛徳川家康書状『伊達家文書』)という指示を受けた伊達政宗などとともに、上杉景勝の南下に備える役目が与えられた。このとき秀康は先鋒となることを望んだが、家康に「景勝が怖いのか」といわれ、やむなく小山に残ったという(「越叟夜話」)。
 九月十五日の関ケ原の捷報は、同日付で伊達政宗に宛てた家康の書状にみられるように(『伊達家文書』)、ただちに関東へ伝えられた。秀康へも、関ケ原の勝利は「其方(秀康)奥州表手強く押えられ関東静謐の故なり、一世の大慶これに過ぎず」(「家譜」など)という家康の賞詞とともに、二十八日以前には知らされたと思われる(結城秀康書状『伊達家文書』)。
 越前拝領のことは、秀康が家康へのお礼言上に、小栗兼友を遣わしたことについての秀忠の書状が慶長六年正月四日付であり、上方と関東との往復に要する日数からみて、十二月中旬までには結城へ報じられたと思われる。拝領の日は、十月(「福井家記」)、十一月十五日(「津山松平家譜」『恩栄録』)、十一月(「越叟夜話」)、十二月二十八日(『国事叢記』)のほか、「家譜」が「十一月日不詳」とする。諸書によって違うが、北庄城番保科正光の禁制や安堵状が十一月中旬まで出されていること、また『義演准后日記』慶長五年十一月九日条に「三河守家康息、是ハ越前拝領云々」とあることからして、この頃までにはほぼ決まっていたとみてよい。ここに加賀前田氏に次ぐ六八万石の福井藩が成立したのである。
写真39 徳川秀忠書状

写真39 徳川秀忠書状

 慶長六年の正月を結城で迎えた秀康は、二月に入って北庄城受取りのために本多富正を先発させた。自身は結城に残る家臣たちの行末を見定めたあと、七月には家康の軍門に降った上杉景勝を伴って伏見に行き、家康へのお礼言上を済ませ、七月二十八日北庄に入ったと伝える(「家譜」など)。ただし、『義演准后日記』慶長六年八月六日条には「家康息三河守上洛、伏見へ直に越さる」ともあるので、もしこの日に秀康が上洛したとすれば、「家譜」などの記事は疑わしいことになる。
 秀康の越前入封は、前田氏に備えたものであり、軍事的な意味をもっていたことは疑いない。家康が「越前肝要の地」(慶長十二年閏四月二十四日付徳川家康黒印状 資6)といい、忠直改易の跡へ尾張徳川義直の移封が噂されていることからもうかがわれるように(寛永元年四月十三日付細川忠利披露状『細川家史料』)、この時期の越前は、戦略上の要地とみられていたのである。若狭に京極氏を置き、彦根に井伊氏を配したこととあわせ、家康の巧妙な政策といえるものがある。



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