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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    二 福井藩の成立
      秀康と秀忠
 ここで秀康と秀忠の関係についてみておくことにしよう。秀康の一代記には、「秀康公御行状」「越前黄門行状」など数種類のものが伝わる。いずれも同工異曲であるが、誇張した表現とみられる部分も多く、真偽の判定も容易ではない。共通しているのは、秀康の奇矯の振舞いを、秀忠の兄でありながら将軍になれなかったことに求めていることである。天正七年、信康が織田信長によって自殺させられた時、秀忠は生まれたばかりであったので、そのように考える向きもあったのかもしれない。しかし、出生の時から父に疎んじられたことが伝えられているように、むしろ人質とされたのである。秀忠は幼名も父と同じ竹千代と名付けられ、表12のように、位階・官職の昇進も秀康に比べて格段に早いのであり、家康の意志をはっきりとうかがうことができる。慶長五年の冬、大坂城で家康の重臣たちが後継者について議したことが伝えられているが(「大久保家留書」)、福井藩に仕えた兵学者大道寺友山もいっているように、秀吉の養子になった時点で、秀康が父の跡を継ぐ途は事実上閉ざされたとみられる(「越叟夜話」)。

表12 秀康と秀忠の位階・官職

表12 秀康と秀忠の位階・官職
    注1 (  )内は年令.
    注2 『公卿補任』『徳川諸家系譜』による.諸書により違いがある.

 なお、毛利輝元が「諸大名より、大納言(秀忠)様御同前に馳走申さるの由、左様あるへく候」といっているように(慶長八年十月十七日付毛利輝元書状『萩藩閥閲録』)、諸大名の秀康に対する気遣いにはなみなみならぬものがあったが、将軍の子息に対する敬意であろう。



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