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 第二章 藩制の成立
   第一節 福井藩と小浜藩の成立
    二 福井藩の成立
      結城秀康
 結城秀康は、天正二年(一五七四)徳川家康の二男として遠江国宇布見村で生まれた。兄が信康、秀忠は弟に当たり、母の万(長勝院)は永見吉英の娘である。幼名を於義丸、ゆえあって中村源左衛門や本多重次のもとで育てられたという。なお幼名は、貞享元年(一六八四)の「松平綱昌書上」(『譜牒余録』)によれば「童名義丸」とあり、また「越前世譜」(松平文庫)のなかにも「稚名義丸」とするものもあるので、あるいは義丸が正しく、「於」は敬称かもしれない。 写真38 結城秀康像

写真38 結城秀康像
<東京大学史料編纂所所蔵目録データベースへ>
 天正十二年、父家康と豊臣秀吉が小牧・長久手に戦ったが、その講和策の一環として秀吉の養子、実際には人質として大坂に送られた。やがて羽柴秀康と称し、従四位下に叙せられ、家康もかつて称したことのある三河守に任じられた。初陣は一四歳の同十五年、秀吉の九州攻めの時といわれる。天正十八年、秀吉が小田原を攻略したあと、結城晴朝の養子となって一〇万一〇〇〇石を継いだ。この縁組には家康の了解も必要だったようで、同年七月二十九日の家康覚書に「結城跡目の儀三河守に仰せ付けらる段忝く存じ奉る」とあり、また「三河守五万石」ともあるので、秀吉の内意は初め五万石であったとみられる(『徳川家康文書の研究』)。結城氏を襲った直後には葛西一揆鎮圧のために奥州に出陣し、文禄元年(一五九二)の朝鮮出兵には多賀谷三経や本多富正など一五〇〇人を率いて肥前名護屋に在陣している。こののち数々の武勇談も伝えられるように、武将として次第に頭角を現していったようである。
 なお秀康は、結城に入って秀朝と改め、のち家康の命によって徳川もしくは松平に復し、再び秀康を名乗ったともいわれる(「越叟夜話」「家譜」など)。秀朝改名のことは、慶長三年(一五九八)の朱印状に秀朝と署名しているので(『結城市史』)、一時期秀朝といったことは疑いない。しかし結城時代にも秀康名の書状があることをみれば(越葵文庫 資3)、秀康の名を捨て去ったとはいいにくい。復姓についてもなおはっきりしないことが多い。いまのところ徳川ないし松平と記した確かな史料がなく、また秀康の死後松平直基が結城の名跡を継いでいることも、復姓に疑義を抱かせる。いずれにしても定かでないのであり、本書では結城秀康と表記することにした。
 慶長四年から翌五年六月まで伏見城を守っていた秀康は、その八日、上杉景勝を討つべく伏見を発って関東に向い、十六日には家康も大坂を出発している。



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