目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
    二 越前国支配の様相
      給地支配
 「国中御縄打」と称された勝家の検地が行われたことが確実なのは、丹生郡の天谷、織田荘とその近辺、田中郷くらいであるが、坂井郡でも「検地の上を以て」給地が宛行われているので(片岡五郎兵衛家文書 資3)、敦賀郡と大野郡を除く地域には検地が行われたと考えられる。なお、府中三人衆の管轄する郡や彼等の給地については彼等が検地を行っている。
 検地の後、天正五年三月二十七日には織田寺に劒大明神領が引き渡され(上坂一夫家文書 資5)、四月七日には信長の朱印状に任せて新開一衛門尉に坂井郡王見郷宮森村の二〇〇石が勝家から与えられている(片岡五郎兵衛家文書 資3)。勝家は三月一日の書状で、ようやく雪も消えるであろうから謙信軍に備えて加賀に出陣することを告げており(森田正治家文書 資4)、これら検地高に基づく給地宛行いは加賀への出陣と関連していたものと思われる。さらに謙信軍の能登七尾城攻撃が本格化した八月には、鶴見与右衛門尉に足羽郡曽万布村・坂井郡関郷のうちで合計二〇〇石を給与している(松雲公採集遺編類纂 資2)。勝家が給地に応じてどのような軍役を徴したのか不明であるが、謙信軍との対決をひかえて検地高に基づく知行宛行いを進めたものと考えられる。その他の武士の給地については不明であるが、勝家の一族・重臣、および前田利家・佐々成政の所領については、勝家の後に越前に入部した丹羽長秀が、天正十一年七・八月に家臣に与えた給地の村名の肩書に「柴田分」・「権六分」(勝家の息)・「伊賀分」(勝家養子の伊賀守勝豊か)・「前田分」・「五分一分」(佐々成政)と旧領主名を記しているので、彼等の所領の一部を知ることができる(表1)。当然のことであるが、彼等の所領は管轄郡内を中心に設定されている。
 給人が給地をどのように支配したのかはよくわからないが、天谷の村人の請文は、支配についての村人の要求は給人が定められた時に言上すると述べている。越前の農民は、新領主・新給人に対して農民の負担のみならず、農民に対する領主・給人の義務を記した指出を提出して、支配は両者合意のうえで行われるべきであるという伝統を戦国期を通じて保持していた。したがって給人の支配はこれまでの伝統や慣習を踏まえたものになることを考慮しておく必要があろう。先述の劔大明神領坪付帳や天正十年の織田寺千手院領指出には名請人の名が記されているが(劔神社文書 資5)、この名請人を給人が独自に決定したとは考えにくく、農民からの指出によったものとみられる。また、天谷では畠・畑・山畑や居屋敷は分米が付されているが、右の千手院領指出ではこれらは反別二貫五二〇文程度の銭納とされている。勝家の検地は「村高」は畑・居屋敷も含めて分米高で記すが、それは実際の収納まで規定するものではなかった。

表1 柴田・前田・佐々等武将の領地

表1 柴田・前田・佐々等武将の領地

 しかし、勝家が給人の給地支配についてまったく方針をもたなかったわけではない。劒社領や信長直臣の新開氏に給地を与えたとき勝家は山林野川などは「国中並」「諸給人並」に支配せよとしている。勝家支配下では山手銭が徴収されていたが(加藤源内家文書 資3)、山林野川を給地として支配する時にはなんらかの基準があったものとみられる。また、天正七年に織田寺社は、年貢未納者については百姓に認められている作職を取り上げてよいかを勝家に尋ね認められている(劔神社文書 資5)。これは場合によっては給人が百姓地を取り上げて手作地とすることも認めるという態度を示すが、織田寺社が勝家に問い合わせているのは、検地によって耕地が百姓に打ち渡されたものである以上、給人の一存では百姓の作職を取り上げがたかったものと思われる。天正六年に佐々成政の家臣と思われる二名の人物が今立郡大滝に、寺庵・給人で名請地を持つ者は一般の百姓並の諸役を勤めるよう命じており(三田村士郎家文書 資6)、検地によって打ち渡された地は百姓としての負担をすべき地である、という原則を知ることができる。



目次へ  前ページへ  次ページへ