越前に入部した勝家は北庄城建設に取り掛かったが、天正四年三月の「国中江申出条々」に述べられているように農村復興を重視していたため、城建設には何か年も要した。イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、布教のため天正八年五月十八日に北庄城の勝家を訪ねているが、立派なこの城はいま大きな工事をしていることを報じている(「ルイス・フロイス書簡」)。フロイスは城とその他の家の屋根がすべて立派な石で葺いてあることに強く印象付けられたようで、勝家の敗死を伝える後の書簡でも屋根の石ははなはだ滑らかで、轆轤にかけたように形が整えられていたと述べている。天正十一年四月の賎ケ嶽合戦のあと勝家を北庄城に囲んだ羽柴秀吉は、北庄城は勝家が数年をかけてこしらえた城であり、石蔵(天守台)を高く築いた上に天守を九重に上げていたと記している(『毛利家文書』)。同じく天正四年より建設されたと伝える坂井郡丸岡城の現存する天守が二重三階であることを考えると、九重の天守をもつ勝家の北庄城の規模の大きさが推定されよう。
勝家の北庄城の場所は、近世に記された「越藩拾遺録」や「柴田勝家始末記」などに、近世福井城の漆門(晴朝門、俗に鳩の門)の南の升形が天守の跡であるとしており、今日の福井市柴田神社の地に比定される。おそらく足羽川を自然の城堀として利用していたのであろう。また、慶長十七年(一六一二)頃作られた「北庄四ツ割図」(松平文庫)には北庄城西部の町が「堀・土居」で囲まれていた名残りを記しており、勝家の時代には足羽川以北の城下町全体が堀と土居によって囲まれていたと推定されている(『福井市史』資料編別巻絵図・地図)。戦国期より足羽川を挟むこの地は足羽三か荘と称され、足羽川以北にあった北庄はその一つの荘であったが、勝家の城が北庄に置かれたため次第に北庄がこの三か荘を代表する地名になっていった。 |