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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
    二 越前国支配の様相
      村の性格
 勝家の検地によって確定された織田大明神領一四八九石余が織田寺に引き渡された時、「村九所」を渡すとあるように検地は村を単位に行われた(劔神社文書 資5)。検地の結果を示す坪付帳をみると、織田神領は轟村・鎌坂村・三崎村など九か村に存在していた(北野七左衛門家文書 資5)。ところでこれら村ごとにまとめられている田地のなかには、同じ田地の小字名でありながら、いくつかの村に現れるものが知られる。例えば「ヤケヤ」と呼ばれる地は轟村ほか五か村の田地として現れる。このような例が多く知られるので、ここで村の田地とされているものは、その村人が持っている田地を指し、ある空間を村域として確定した場合の村域内の田地ではないと判断される。すなわち勝家の検地が捉えた村とは、いわゆる村切(耕地などを含めた村域確定)をともなわない居住地群としての集落であった。
 このような垣内的集落は、越前においては室町期より荘園のなかに明瞭に現れ始め、戦国末期には惣代が代表する自治的な集団に成長していた(『通史編2』第三章第五節)。荘園制とその基礎をなした租税徴収単位としての名制度を否定した勝家の検地は、年貢収納のためにまずこのような村人の集団を内部に介入することなくそのまま捉え、村人の持つ耕地を掌握したのである。ただし、これらの村のすべてが用水や入会地を独自に保持するある程度成熟した村落にまで成長していたとは考えられず、織田神領の村々のように藩制下の村にはなりえず、その小村にとどまったものも多かった。



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