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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
    二 越前国支配の様相
      村人の対応
 勝家の検地は田地一反につき一律一石五斗の分米を付すという特徴をもっているが、この反別分米高は朝倉氏時代に一般的に見られることである。ただし朝倉氏時代にはこの分米高は本役米と内徳を合計したものであった。したがって勝家の検地が一石五斗の分米を設定しているのは、当時の作人が領主と内徳収納者に納入していた負担額にほぼ等しいとみてよい。勝家が農民からこの分米高すべてを年貢として収納しようとしていたのか、あるいは近世の免(村高に対する年貢率)のような方法をとって、惣分米高の何割かを年貢として徴収しようとしていたのかは残念ながら知ることができない。
 勝家の検地のもう一つの特徴は、名請人(年貢納入責任者)を記しておらず、農民の土地保有や年貢負担者を誰にするかという問題は村に委ねられていることである。この点に関連して注目されるのが、天谷の農民である三郎兵衛が天正七年に耕地を子孫に譲与した時の譲状で、そこには勝家の検地をまったく反映していない、朝倉氏時代のものとみられる耕地面積や分米・分銭が記されている。譲主の三郎兵衛は、この耕地面積や分米・分銭は「こわりのちやう」(小割帳)に載せられた記載であることを述べているから、新たに定められた検地高に基づいて賦課される年貢に対応するため、村人たちはそれぞれの持分を確認して、旧来の面積や分米・分銭を変えることなく小割帳に記し、賦課される年貢はその小割帳上の持分に応じて割り振って納入していたものと考えられる。すなわち勝家の検地に対して、村人はその村の状態に応じて独自に検地高に対処しているのである。したがって天谷の場合は、農民のあいだの内徳収取や地主・小作関係が基本的には維持されていたと考えられる。
 このように年貢負担者は村の内部で決められたが、そのことが村の内部対立をあらわにする場合もあった。すでに戦国期において南条郡池大良では、最有力農民である番頭の持つ年貢免除の手作地や夫役徴発権に対して村の新参者という格付けをされている間人たちが抵抗を強め、また、名子も「百姓」と称される有力者の制止を振り切って「新儀」の大綱を立てて譲らなかったように(中野貞雄家文書 資6、布施美術館所蔵文書 資2)、おとな百姓層と小百姓層の対立は激しくなっていた。勝家の検地が行われた丹生郡田中郷京方では、長百姓(大百姓とも記される)と小百姓の村内持分などをめぐる争いが勝家のもとにおける訴訟にまで発展し、天正五年十一月に勝家老臣が三か条について裁定を下している(木下喜蔵家文書)。その裁定は(1)長百姓が小百姓に小作に出している畠の三分の一は小百姓の持分とする。残りの三分の二の小百姓小作地について、小百姓に未納があるとき以外には長百姓はその地を取り上げてはならない。(2)上夫・陣夫は持分の田畠に応じて負担せよ。なお、北庄詰夫・入草(馬の飼葉)・糠・代官夫などは家並に負担せよ。(3)村内の夫役は両者合意のうえで召し使うことにする。また、長百姓が「脇々の居住」(間人などのことか)を召し使うことは禁止するが、日追夫については従来から定まっている範囲で召し使うことを認める、とされている。これは畠三分の一に限ってではあるが小百姓の年貢直納を認め、長百姓による小百姓の一方的な夫役使役を禁止しているということについてみれば、小百姓自立という後の太閤検地の時の方針に部分的ではあるが共通するところがある。また、勝家への夫役負担が持分の田畠を基準としていることも、名制度を夫役負担の基礎とした荘園制のありかたと比較して注目される。
写真14 徳庵・中村宗教連署裁許状

写真14 徳庵・中村宗教連署裁許状

 勝家の検地そのものは小百姓の自立を促進するものではなかったが、検地が惣分米高を村に打ち渡したことにより、その配分が村の公的な問題となって長百姓と小百姓の対立が公然化し、この対立に対処するなかで、勝家の小百姓自立策が打ち出されているのである。この意味で勝家の検地においては小百姓の自立はあくまで小百姓自身が勝ち取らなければならないものであった。



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