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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
    二 越前国支配の様相
      柴田勝家の検地
勝家が国内の前田利家以下の武将を与力として軍事指揮権を与えられていたのは、伊達輝宗家臣に宛てて「北国表警護のため、越前に居置れ候」と勝家自らが述べているように、加賀一向一揆と上杉謙信に対抗するためであった(建勲神社文書)。天正四年(一五七六)八月に信長と対立していた前将軍足利義昭や石山に篭城中の本願寺は、上杉謙信に加賀一向一揆と和睦し信長を攻撃するよう出兵を求めた。これに応じた謙信は同年十一月に兵を派遣して、信長方に味方する能登畠山氏家臣の拠る七尾城の攻撃を開始した。勝家の「国中御縄打」、すなわち検地はこうした軍事的緊張の中で、国内の体制を整備し強化するために行われたのである。
写真13 柴田勝像

写真13 柴田勝像

 興策にもかかわらず農村の疲弊は容易に回復しなかった。例えば織田寺領の給人・百姓は織田寺に年貢を納入できず、また、寺領がある平等村などは府中三人衆の所領とされていたため年貢や夫役の収納基準があいまいであった。そこで平等村などの惣代は、天正四年九月に村内の劒社末社領の田地・畠・山・屋敷の年貢米と分銭を記した指出を勝家に提出している(劒神社文書 資5)。この指出提出を主導したのが織田寺であったか勝家であったかはわからないが、指出は朝倉氏時代に制度として定着していた農民から収納する年貢の掌握の方法であり、農民が指出を提出することはその年貢納入に合意し請け負うことを意味した。天正四年の指出では村の惣代が差出人となっていることが注目され、勝家支配下においては惣代を通じた村掌握が進められていることを知ることができる。
 さて勝家検地実施の具体的なありかたは、丹生郡天谷村の場合が唯一の例として知られるだけである(野村志津雄家文書 資5)。それによると天正五年二月二十四日に検地役人とみられる吉田五右衛門等四人の連署で、田・畠・畑・山畑・居屋敷の一筆(検地帳登録時のひとまとまりの土地)ごとの在所と比較的詳細な面積、その一筆ごとの分米高(米で表わした年貢基準高)、さらにこの分米高を合計した惣分米高七三石余を記した検地坪付を天谷の百姓中に打ち渡している。この検地では、一反は従来どおり三六〇歩とされているが、一反当たりの分米高は田と居屋敷に一律一石五斗、畠・畑・山畑に三斗七升余から七斗五升余を付している。また、この検地坪付には中世において年貢・公事の負担単位であった名の制度を示すものは見られないが、年貢を負担すべき作人や名請人はまったく記されていない。さらに注目されるのは、五日後の二月二十九日にはこの検地坪付をもとに一筆ごとの面積・分米に少し修正を加えた同様の坪付を、八人の天谷百姓が吉田五右衛門等に提出し、「右この分御縄打ちのごとく、別義なく請取り申し候」と記して、検地によって定められた天谷の高を請け負っていることである。
 これらのことから天谷における勝家の検地は、誰を名請人として確定するかということは問題とせず、検地によって掌握した田地・居屋敷については一律に、畠・畑・山畑については差を設けて分米を付し、それを合計して得られた村の惣分米高を村人に打ち渡し、村にこの惣分米高請負の誓約をさせることをその内容としていたといえる。簡単にいえば、勝家検地はなによりも「村高」を確定し、それを村に請け負わせることを意図していたのである。



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