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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
    一 柴田勝家の越前支配
      刀さらえ
 勝家にとって、北の加賀一向一揆と上杉謙信の軍勢に対する備えが必要であることはいうまでもないが、越前国内においても軍事的緊張が続いていた。武生市小丸城址から出土した瓦に、五月二十四日に一揆が起ったので、前田利家が一〇〇〇人ばかりを生捕り磔刑や釜ゆでの刑に処したことが記されている。この一揆については他の史料で確かめることができないが、天正四年のことと判断される。
 国内の一揆の動きに対しては、反本願寺派の寺院・門徒の武装が奨励されている。一向一揆の惣大将である下間頼照を討ち取った坂井郡黒目の真宗高田派称名寺に対し、勝家は天正三年十月に黒目ほか四か村の人々が腰刀・武具で武装することを命じている(称名寺文書 資4)。翌年五月には勝家重臣の佐久間盛政が、越前の高田派専修寺門徒に兵具を備えて忠節を尽くすよう伝えており(法雲寺文書 資5)、また、金森長近の家臣である遠藤惣兵衛が大野郡折立称名寺に対し、今は必要な時期であるから称名寺配下の者たちに購入してでも刀を差させるのが大切であると述べているのも、この頃のことであろう(稱名寺文書 資7)。
写真11 一向一揆文字瓦

写真11 一向一揆文字瓦

 反本願寺派の寺院・門徒の武装化が奨励されていた天正四年正月に、丹生郡織田寺社およびその内者に対して「刀さらえ」が勝家から命じられている(劒神社文書 資5)。「さらえ(浚え)」とは点検あるいは摘発を意味するが、この「刀さらえ」について織田寺社は以前より知行高に対する諸役は免除されていることを理由に免除を願っており、「刀さらえ」は知行高に応じて刀などを提出するものであったらしい。近世に記された「明智軍記」や「柴田勝家始末記」などでは、一揆を防ぐため国中より武器を取り上げ、これを鋳直して農具や九頭竜川の舟橋の鎖に用いたとしている。しかし反本願寺派への武装奨励や織田寺社の例からして、この「刀さらえ」をただちに後の刀狩と同一視することはできないし、農具や舟橋の鎖に用いたというのも確証はない。
写真12 九頭竜川舟橋の鎖

写真12 九頭竜川舟橋の鎖



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