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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第一節 織田信長と一向一揆
    一 信長と越前支配
      信長の本知安堵
 天正元年(一五七三)八月二十日に朝倉義景は大野六坊賢松寺で自殺し、朝倉氏宗家は滅んだ。すでにこれ以前から織田信長は軍勢の乱妨狼藉などを禁止するという禁制を越前国内に出していたが、この後に同じ内容の禁制が広く国内に出されている。こうして越前国内の鎮静を図った信長は、引き続き近江小谷城の浅井氏を攻撃するため八月二十六日には越前を離れ、翌二十七日には浅井久政・長政父子を滅ぼした。
 後述するように、若狭については重臣の丹羽長秀に一国の軍事指揮権を与え、武田氏旧臣は長秀の与力とされたが、越前については長秀に相当するような支配者は置かれなかった。その代り近江で信長と対陣中に朝倉氏を裏切って信長方となっていた前波長俊(もと吉継、のち桂田長俊と称す)を「守護代」「朝倉始末記」は「守護職」とする(『信長公記』)として一乗谷に置いたとされているそして信長の意向を受けて越前の支配に当たる信長重臣として明智光秀・羽柴秀吉・滝川一益の三人が置かれた。ただしこのうち秀吉は信長に従って近江に出陣したので、越前支配に関するこの三人の連署状に花押を加えてはいない。
 さて、信長の支配は、越前国内の朝倉氏旧臣や寺社がそれまで支配していた知行分を「本知」として安堵することを原則としていた。八月二十三日に鷲田三郎左衛門尉に当知行に任せて四五〇石が安堵されたのを初見とし(尊経閣文庫所蔵文書 資2)、以後十月八日に橋本三郎左衛門に六石(橋本文書)、大野郡折立称名寺の佐々木蔵人に七石の地を与えた例まで(稱名寺文書 資7)、いずれも信長朱印状で「本知」の支配が武士や寺社に認められている。この「本知」が何に基づいて確定されたのかは、正確にはわからない。今立郡長泉寺岩井西泉坊が信長朱印によって安堵されていた知行分のうちには名の抜地が含まれていたことが、天正元年十一月の紛争から知られる(中道院文書 資5)。朝倉氏時代には、名田をはじめとする耕地においては、本役米などと称される領主に納入する年貢、および耕作人の取得分のほかに、内徳と呼ばれる中間得分が形成されており、売買されていた(『通史編2』第四章第三節)。この内徳売却の一つの方法として、売却者が売却地の本役米などの負担を免除して買得者に引き渡すことが行われており(本役米は売却者が別途負担する)、これを抜地と称した。そして朝倉氏は家臣・寺社の申告に基づき、本役米のみならず抜地を含めた内徳を給地高として安堵していた。したがって西泉坊の朱印安堵地にこうした抜地が含まれていたことから、信長の安堵した「本知」とは朝倉氏時代の給地高をもとにしていたものと判断される。
 この本知安堵の信長朱印状は、九月七日に大野郡宝慶寺が前波長俊を通じて明智光秀等三人衆に寺領安堵の朱印状が出されるよう願っていることからして(寳慶寺文書 資7)、この三人衆のもとで審査の後、信長に下付が申請されたものであろう。信長より朱印によって本知を安堵されたものは、信長の直接の給人という位置付けを得た。なお信長は、これら本領安堵にさいしては知行高一〇〇石につき黄金八両を徴収したため、寺社の多くが仏具などを売り払ってこれを調達したと伝えられており(「朝倉始末記」)、額は不明ながら本知安堵の朱印銭を催促されている例も知られる(三田村士郎家文書 資6)。



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