『福井県史』近世編は二巻からなり、安土桃山時代から江戸時代の終りまでを対象とする。すでに完結した資料編は、中世から近世の史料を地域ごとにまとめ、所蔵者別に編さんされているので中世との区分は考慮されていない。実際の作業は、もちろん相互に協力しながらではあるが、主として慶長五年(一六〇〇)の結城秀康と京極高次の入封までを中世史部会、それ以降ほぼ慶応三年(一八六七)までを近世史部会が担当した。したがって通史編は資料編と必ずしも対応していない。また通史編の性格として、一巻で構想するか、二巻に分かつかによって、構成が根本的に異なってくる。そこでまず近世編全体の枠組と、本巻の構成 について述べておこう。
一口に近世といっても、その始期や終期は論者によって様々であ り、必ずしも一致しているわけではない。江戸時代とか幕藩体制という名称にこだわれば、徳川家康が征夷大将軍に任じられた慶長八年から、徳川慶喜が大政を奉還する慶応三年ということになろうが、それではあまりにも機械的な適用にすぎるといわねばならない。安土桃山時代また織豊時代ともいわれるように、織田信長・豊臣秀吉の時代に始期をみる見方もあるし、逆に信長と秀吉の間に画期を認める考えも有力である。また、徳川家康が実質的に天下を掌握する関ケ原の戦いのあった慶長五年、あるいは豊臣氏が滅んだ元和元年(一六一五)に始期を求める考えもありうる。
終期についても同様で、ペリーが来航した嘉永六 年(一八五三)から明治維新期に含める考えもあるし、明治二年(一八六九)の版籍奉還や、四年の廃藩置県にまで遅らせる見方もある。どこを中世の終りとし、いつから近世の始まりとみるかにかかわり、封建社会としての江戸時代を、社会構造まで含めてどう把握するかによって見方も分かれるのである。
このように考えは様々であるが、この近世編では、越前・若 狭の歴史的現実を踏まえ、天正元年(一五七三)から筆を起すことにした。天正元年には織田信長の侵攻によって越前で朝倉氏が滅び、若狭でもこの頃までに武田氏が実権をまったく失っていたのである。これによってただちに若越の地に近世的な体制ができあがったわけではなく、また信長を最後の戦国大名とみるか、統一政権の嚆矢とするかも大問題であるが、さしあたり信長による若越制覇の時をもって始期としたのである。
他方終期は、ごく常識的 に慶応三年とした。開国の影響が地方の藩に直接に現れるわけではなく、天保期(一八三〇〜四四)前後から始まる藩政改革や、中期以降盛んになる農民闘争など、幕末まで一貫して叙述したほうが理解しやすいこと、近代編を戊辰戦争から始めるのがより実際的であることなどによっている。
本巻が対象とするのは江戸時代の前期、だいたい十六世紀の終り 頃から十八世紀の初め頃までである。すなわち近世の政治・社会体制、幕藩制社会とか幕
藩制国家といわれるものができあがってゆく過程、ないしはできあがった組織・機構・仕組、あるいは社会体制、そこでの文化や宗教、そういったものを中心に叙述することに努めた。それがどのようにして崩れ、解体してゆくか、新しい文化がどのようにして現れてくるかといっ
たことは、第二巻で述べる予定である。もっとも一応の基準であるから、内容により、また史
料の制約などによって、本巻で中期以降のことに触れた部分も多く、二巻で前期のことに言
及することもあるであろう。章・節によってはほとんど中期以降幕末に及んでいるのはそのためである。
次に本巻で留意した点ないし若越の地域的特色といったことに触れておこう。
天正十年本能寺に横死した織田信長のあとを継いだ豊臣秀吉は、新征服地において次々と検地を行った。これが太閤検地である。若狭で天正十六年、越前では慶長三年に太閤検地の竿が入れられている。太閤検地は、小農民自立政策といわれているように、一枚一枚の土地を丈量したうえでその生産力を石高で表示し、かつ一地一作人を原則として作合(中間搾取)を否定して、実際の耕作者を名請人として検地帳に登録したのである。江戸時代が石高制の社会といわれるのは、太閤検地の石高、あるいはその後入封した大名による検地によって確定された石高が、大名の軍役や家格、家臣の知行、あるいは農民からの年貢搾取や夫役徴発など、あらゆることの基準にされたからである。
しかしこの石高は現 実の生産力を表現するものではなく、あくまで公定の生産力でしかなかった。とくに越前では、
太閤検地の斗代が全国的な標準よりはるかに高く設定され、しかもその後もごく一部を除い
て検地が行われなかったから、多くの村で太閤検地の村高がそのまま継承され後々まで大
きな影響を与えることになった。例えば年貢率は他国の水準に比べてはるかに低く、「高斗
代低免」が越前農村の特徴とされたのもそのためであり、中期以降には村高(したがって領
知高)を維持するために、一反に三石、四石という現実離れした斗代にせざるをえない村も
みられたのである。
慶長五年、結城秀康に越前一国六八万石、京極高次に若狭一国八
万五〇〇〇石が与えられて、福井藩と小浜藩が成立した。この後若狭は、江戸時代を通じて小浜藩であった。
これに対して越前では、元和九年松平忠直の改易のあとめまぐるしい
領主の交替がみられた(図1)。寛永元年(一六二四)敦賀郡が京極忠高に与えられ小浜藩
領となるが、安房勝山藩など酒井家の三分家の所領も敦賀郡内にあった。木ノ芽峠以北(嶺
北)には一門大名四家と譜代大名一家が配されるが、その後も国外の大名が一時的に所領
を持つなど大名の交替があり、それにともなって領知高にも変化がみられる。この図以外に
も寛永三年の本多家のほか、金森・小林・荻原家など旗本の知行所も置かれていた。また
廃藩になれば収公されて幕府領となり、また新しい所領は幕府領を割いて与えられ、幕府領
はまた福井藩に預けられることもあったから、幕府領の変動にも著しいものがみられたので
ある。 |