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 第七章 若越の文学と仏教
   第三節 泰澄と白山信仰
    一 泰澄の足跡
      泰澄の伝記について
 白山信仰の開創者として、奈良時代に活躍したとされる泰澄については、諸本に種々の伝記が残されている。そのうち最古の成立とされ、泰澄の行状について最も具体的な内容の知られるのは『泰澄和尚伝記』である。この奥書によれば、天徳元年(九五七)のころ、三善清行の子で、白山で修行した経歴を有する天台宗の僧浄蔵の口授した内容を、その門人で大谷寺の寺院仏法興隆の根本の人とされる神興が筆記したものとされている。正中二年(一三二五)という最も古い書写の年紀を有するのが金沢文庫本の『泰澄和尚伝記』(『資料編』一)で、このほか同系統の写本として、大永年間(一五二一〜二八)ころの書写と考えられる勝山市白山神社所蔵の平泉寺本(写真144)、南北朝期ころの書写といわれる石川県尾口村の密谷氏所蔵の尾添本、貞享二年(一六八五)書写の水戸彰考館本、明治以降に書写された石川県鶴来町の白山比神社所蔵本などがある。このほか元和五年(一六一九)書写の奥書をもつ朝日町の越知神社所蔵本が二種類伝わっている。また、泰澄や白山のことが掲載されている史料としては、平安後期に成立した『大日本国法華験記』や『本朝神仙伝』、鎌倉末期に成立した虎関師錬による仏教史書『元亨釈書』、江戸期の『本朝高僧伝』などが存在する。ここでは、金沢文庫本『泰澄和尚伝記』(以下『伝記』)にしたがって、「泰澄和尚伝」の要旨を確認しておこう。
写真144 『泰澄和尚伝記』(平泉寺本)

写真144 『泰澄和尚伝記』(平泉寺本)

(1)泰澄は、越の大徳または神融禅師ともいい、越前国麻生津の三神安角を父、伊野氏の
  女性を母として、天武天皇の白鳳二十二年六月十一日に生まれた。
(2)幼いころから一般の児童とは異なり、泥で仏像を造ったりしていたが、持統天皇七年(
  六九三)にこの地を訪れた道照(昭)が神童であることを見抜き、両親にその旨を伝え
  た。
(3)一四歳の時に十一面観音の夢告を受け、越知峰の坂本の岩屋に通い、後年この峰に
  篭もって修行に励んだ。
(4)大宝二年(七〇二)には伴安麻呂が勅使として遣わされ、泰澄は鎮護国家の法師とな
  った。
(5)この年、能登島より小沙弥が訪れ、やがて泰澄の身の回りの世話をするようになり、臥
  行者とよばれた。
(6)臥行者は北海の行船から米を徴収し和尚に供していたが、和銅五年(七一二)中央の
  政府に納める米を運搬して出羽よりやってきた船の船頭神部浄定はこれを断った。臥
  行者が怒ると、船の米は飛んで越知峰に来集したため、仏徳の不思議を見て浄定は
  和尚に謝った。そして米を返してもらい、これを中央に届けたのち和尚の弟子となって
  側に侍した。
(7)和尚は霊亀二年(七一六)に貴女(白山神)の夢告を受け、養老元年(七一七)四月一
  日その母のゆかりの地である白山の麓の大野隈苔川東伊野原に来宿した。
(8)この東の林泉に貴女が現われ、自分は伊弉諾尊(伊弉尊の誤記か)で、妙理大権
  現と号すと語った。
(9)さらに和尚が白山天嶺の禅定(霊山の頂上)に登ると、緑碧池の側で最初九頭竜王が
  、次に白山神の本地仏である十一面観音が現われた。
(10)また左孤峰で聖観音の現身である小白山別山大行事、右孤峰で阿弥陀の現身の大
  己貴を感得し、和尚はこの峰に居した。
(11)のち養老六年には浄定行者とともに都に赴いて元正天皇の病の治療にあたった。そ
  の効あって和尚は護持僧として禅師の位を授けられ、諱を神融禅師と号した。
(12)また神亀二年(七二五)七月には白山妙理大権現に参詣した行基と出会い、行基の
  質問に答えて種々の現瑞などを語り、行基は極楽での再会を誓った。
(13)ついで天平八年(七三六)に都に出て玄に会い、十一面経を授けられた。
(14)翌九年には当時大流行していた天然痘の鎮撫のため、勅を受けて十一面法を修した
  。その功によって大和尚の位を賜わり、また諱を泰澄と号した。
(15)その後、天平宝字二年(七五八)からは越知峰の大谷仙窟に蟄居し、ここを入定の地
  と定めたが、この間神護景雲元年(七六七)には一万基の三重木塔を勧進造立し、勅
  使吉備真備に付けて奉った。
(16)同年三月十八日和尚は予言どおり結跏趺坐し、大日の定印を結んで八六歳で遷化し
  た。その遺骨は石の柩に入れ、大師房に葬った。



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