3 『福井県史』通史編1 原始・古代 目次へ  前ページへ  次ページへ


 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
     四 若狭国分寺跡・若狭神宮寺
      若狭神宮寺
 若狭神宮寺は小浜市遠敷から南に向かい、遠敷川をさかのぼり上根来を通って針畑越えをして京都大原にいたる街道筋の神宮寺区に所在する。現在も天文二十一年(一五五三)に朝倉義景が再建した本堂(重文)を残す。天文十五年の同寺縁起では、元正天皇の勅願によって和銅七年(七一四)沙門滑元が草創したと伝えられ、もとは神願寺と称した。
 当寺は若狭彦・姫二神垂迹のとき宮居寺だったことから両社の奥の院と号し、のち神宮寺に改めたという。『類聚国史』天長六年(八二九)三月十六日条に、若狭比古神の神主、和宅継の曾祖赤麿が仏道に帰心し、養老年間(七一七〜二三)に道場を建て仏像をつくり神願寺と称したとある。ちなみに天文十五年の「神宮寺縁起」によると現在の「若狭根本神宮寺」となったのは南北朝期のことで、尊円法親王が改称したという(『小浜市史』社寺文書編)。したがって、ここでは神宮寺として記述するが、当寺の縁起による八世紀初頭の成立過程は、泰澄伝説にみえるような古代山岳宗教と同様のあり方を示している。もっとも、八世紀初頭に当寺が一定の伽藍をもったかどうか疑問だが、出土瓦をみるかぎり(写真142、図115右)、八世紀後半には瓦をともなう建造物の存在したことは事実で、おそらくこのころ若狭神願寺として成立したものであろう。
写真142 若狭神宮寺出土瓦

写真142 若狭神宮寺出土瓦

 この寺院は、軒丸瓦から何らかの形で国家が関与した寺院であったとの推測がなりたつ。当寺域内で出土の軒丸瓦は複弁八葉蓮華文で内傾には連続する鋸歯文をもつ。内区は二重圏となり中房蓮子は一+八で構成されている。軒平瓦は二重弧圏である。この軒丸瓦は太興寺廃寺で述べたように、平城宮第二次朝堂院跡から出土したものと同系類であり(図115)、いわゆる六二二五型式とよばれているものである。官衙・国分寺などに多く使用されており、美作国府や上総・駿河・美作などの国分寺にもみられる。きわめて官的な要素が強く、官衙・国分寺系統以外での使用はほとんどない。もちろん、北陸では今のところほかにみられず、近隣では類系の瓦出土地として丹波の和久寺(京都府福知山市)が知られている。
図115 出土瓦の拓影(左:平城宮、右:若狭神宮寺)

図115 出土瓦の拓影(左:平城宮、右:若狭神宮寺)

 若狭神宮寺は、元正天皇の勅願という草創伝承はもつものの、官衙・官寺にのみ使用の瓦が、なぜここで用いられたのであろうか。
 それには国家権力にかかわる重要な人物の意図が働いたのではとも考えられ、奈良時代有数の権力者弓削道鏡の姿が思い浮かぶ。八世紀後半には仏教信仰と神祇信仰を融合調和させた神仏習合が盛んであり、これを促進させたのが天平神護元年(七六五)に太政大臣禅師となった道鏡であった。その翌年には伊勢神宮寺に丈六の仏像をつくらせるなど、神道への強力な介入をもくろんでいる。このころ、若狭にも関与したのではなかったか。若狭への介入は神護景雲二年(七六八)、安曇石成を若狭国司に補任し、以前から若狭と深いかかわりをもった同じ内膳司のライバル高橋氏を追い落としていることでもうかがえよう(『小浜市史』通史編上)。安曇氏は若狭彦・姫神社を利用した人物として知られ(前掲書)、その宮居寺であった若狭神宮寺を国家介入の寺院としても不思議ではない。
 道鏡政権下における彼の若狭への思い入れが、神宮寺を新宗教政策のなかに組み入れたのであろう。あるいは「御食国」としての若狭を道鏡が掌握したかったのかもしれない。今一つは、大和・山城の北方鎮護として重要な役割を果たしていたことも推測され、同じ元正天皇の勅願と伝える羽賀寺(小浜市羽賀)が、大和・山城・若狭神宮寺の同一線上に位置することも合わせて考えるべきであろう。
 若狭神宮寺には、その実態は不明だが、広大な寺域の北限を示す北門(重文)も残されており、内側周辺の田地から土地改良のとき多数の出土遺物があったという。また、境内地の各所に布目瓦の散布がみられ、総合調査の必要性も考えられる。いずれにしても、軒丸・軒平瓦などの出土遺物から官的な要素の強い寺院であり、神宮寺としては全国的にもっとも早い造立だったといえよう。
  



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